連載日本史218 第一次世界大戦(2)
第一次世界大戦中の1917年、ロシアで革命が起こり、世界初の社会主義政権であるソビエト政府が成立した。レーニン率いる新政権は無賠償・無併合・民族自決の原則を掲げ、翌年にはドイツ・オーストリアとブレスト=リトフスク条約を結んで戦線から離脱した。社会主義を危険視する日・米・英・仏は、チェコスロバキア兵の救援を名目にシベリアへ共同出兵した。
大戦は日本に思わぬ好景気をもたらした。 交戦中の欧州諸国がアジア市場から手を引いたことで、日本の綿織物などの輸出が急増した上に、世界的な船舶不足によって、造船・海運・鉄鋼業が一気に成長し、短期間に大儲けした船成金・鉄成金などが続出したのだ。輸入超過だった日本の貿易額は一気に輸出超過に転じ、日本は債務国から債権国へと転じたのである。
しかし、大戦景気の恩恵は一部の上層階級や成金や寄生地主層にとどまり、庶民には行き渡らなかった。物価の上昇に賃金の上昇が追いつかず、実質賃金はむしろ低下していたのだ。富の再分配のシステムが成り立っていなかったことも、貧富の格差の拡大に拍車をかけた。好況による物価の高騰、特に米価の高騰は下層労働者の生活を直撃し、各地で激しい暴動が起こった。米騒動である。寺内正毅内閣は、その影響もあって総辞職に至った。代わって立憲政友会総裁の原敬が首相に就任し、本格的な政党内閣を組織した。原は平民出身の初の首相ということで「平民宰相」と呼ばれた。
1918年、大戦は連合国側の勝利に終わり、翌年にパリ講和会議が開かれ、ベルサイユ条約が成立した。その結果、ドイツは全ての植民地を失い、軍備も制限され、巨額の賠償金を課せられた。日本は山東省のドイツ権益と南洋諸島の委任統治権を得て、英・仏・伊とともに、戦後に設立された国際連盟の常任理事国となった。一方で、日本は列国が撤退した後もシベリア駐留を1922年まで続け、10億円の戦費を注ぎ込み、2万人以上の死傷者を出した。日露戦争で得た大陸の権益を更に拡大しようと目論んだためである。結果的に目的は果たせず、日本は他国から領土的野心を警戒されるようになり、その後の外交にもマイナスとなった。後に首相になった加藤高明は、シベリア出兵を評して、「何ひとつ国家に利益をもたらすことのなかった、外交上まれに見る失政の歴史である」と述べている。だが、その後も日本は同じような過ちを繰り返すことになっていくのである。
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