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バルカン半島史⑮ ~ローマ帝国のバルカン半島支配~

紀元前30年、ローマ軍に敗れたプトレマイオス朝エジプト最後の女王クレオパトラの自殺によりヘレニズム時代は終焉を告げた。前27年、オクタヴィアヌス(アウグスティス)が初代皇帝となり、ローマは本格的に帝政へと移行する。バルカン半島では既にマケドニア、アカイア(ギリシャ)がローマの属州となっており、1世紀から2世紀にかけての五賢帝(ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の時代には、東はトラキア(ブルガリア)・ダキア(ルーマニア)・小アジア・シリア・パレスチナ・メソポタミア・アルメニア、西はイスパニア(スペイン・ポルトガル)、北はガリア(フランス)・ブリタニア(イギリス)、南はエジプト・キレナイカ(リビア)・カルタゴ(チュニジア)・ヌミディア(アルジェリア・モロッコ)まで及び、地中海全域がローマの支配下に入った。現代のEUを凌ぐ一大政治経済圏が出現したのである。

「ギリシャ人は征服した土地に神殿を建てるが、ローマ人は道路と水道を造る」と言われたように、ローマ帝国の急速な勢力拡大に伴って、各地のインフラが整備された。端的に言えば、ギリシャが文化を、ローマが文明を、地中海世界に広めたのだ。哲人皇帝と呼ばれたマルクス=アウレリウス=アントニヌスをはじめ、セネカやエピクトテスなど、ギリシャのストア派哲学を精神的支柱とした政治家もいる。美術においてはギリシャ彫刻の模写がローマ時代に多く作られたことで、均整のとれた彫像の美が後世にも豊富に残されることとなったのである。一方、ローマの文化は実用性に優れ、道路や水道の他にも、コロッセウム(闘技場)やパンテオン(万神殿)など、コンクリートとアーチを活用した建築・土木技術を駆使した巨大建造物の数々が、帝国の威容を今に伝えている。

ローマに征服された属州からは奴隷と穀物が本国に送られ、奴隷労働に支えられた大土地農業経営(ラティフンディア)が経済基盤となって、騎士階級(エクイテス)が生まれた。だが、2世紀になってパクス=ロマーナ(ローマによる平和)の下で属州拡大が頭打ちとなって新たな奴隷の供給がなくなると、ラティフンディアは立ち行かなくなり、有力者が小作農民に土地を貸し付けて地代を取る小作人制(コロナトゥス)が主流となる。

3世紀末から4世紀初頭にかけて、皇帝ディオクレティアヌスは、帝政前期の元首制(プリンキパトゥス)から専制君主制(ドミナトゥス)へと転換し、コロナトゥスを利用した身分統制を行った。肥大化した帝国の安定を図ったのである。ディオクレティアヌスは帝国最後のキリスト教迫害を行ったが、次世代のコンスタンティアヌス帝は、拡大するキリスト教勢力を抑圧し続けるよりは支配層に取り込んだ方が得策との判断から、313年にキリスト教公認に踏み切る。さらに彼はコロヌス(小作人)の移動を禁じ、コロナトゥス制の規制強化を図った。これが西洋中世の経済的基盤となる農奴制へとつながってゆく。キリスト教と農奴制、中世の二大支柱が出そろったのだ。

330年、コンスタンティヌス帝は帝国の首都をローマからビザンティオンへと移し、自らの名を冠してコンスタンティノープルと改名する。彼の死後、帝国は東西分裂へと向かい、バルカン半島を含む東地中海世界は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の支配下に組み込まれていくのである。

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