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連載日本史232 ファシズムの台頭(2)

テロは続く。1935年には、陸軍統制派の永田鉄山が、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されるという事件が起こった。統制派とは、永田や東条英機などの陸軍省・参謀本部の中堅将校を中心に、官僚や政財界と連携しながら軍部統制の下で総力戦体制を目指す一派である。一方、皇道派は荒木貞夫陸相や真崎甚三郎元教育総監らの指導を受けた青年将校を中心に、直接行動による国家改造・天皇親政・軍部独裁政権樹立を目指していた。政治への発言力を増した陸軍の内部では、両派の主導権争いが激化していたのだ。

二・二六事件(「世界の歴史まっぷ」より)

翌年二月、皇道派の陸軍青年将校たちが首相官邸や警視庁を襲撃する二・二六事件が発生した。岡田首相は難を逃れたが高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、首都の中枢は占拠され、戒厳令が敷かれた。彼らはクーデターによって皇道派の真崎を首相とし、一気に軍部独裁政権を樹立しようと企てたのである。

北一輝(Wikipediaより)

しかし側近を殺された昭和天皇は激怒し、鎮圧を命じた。事件後には陸軍中枢から皇道派は一掃され、統制派が主導権を握って更に政治への関与を強めていくことになる。事件の中心となった青年将校17名や理論的指導者としての北一輝らは死刑となったが、将校たちの背後にいたはずの真崎は裁判の結果、無罪となった。陸軍上層部は徹底的に自らの責任を回避したのである。

二・二六事件を引き起こした青年将校たち(Huffingtonpost.jpより)

テロの実行者となった青年将校らは多くが農村出身であったという。政界や財界や高級官僚への道が事実上閉ざされていた彼らにとって、軍は自らの立身を実現しうる場であった。恐慌による農村の惨状をまのあたりにした彼らの目には、政治家や財界人が汚辱にまみれた存在に見えていたことだろう。とはいえ、彼ら自身に明確なビジョンがあったわけではない。動機となる憤りには幾分かの正当性があったとしても、それでテロ行為が正当化されるわけでもない。彼らは結局、軍部の権力掌握や派閥争いに利用されただけであったが、有能な政治家を多数殺害して日本の進路を誤らせた点において、やはりその責任は重いと言わざるをえない。彼らは自らが守ろうとしたものを結局は自らの手で葬ったのだ。

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