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トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~⑤

ところで、同じ日蓮思想をバックボーンに持ちながら、莞爾・賢治・湛山の三者の思想と行動が、こんなにも異なっているのは一体なぜだろう。ここで時代を13世紀へと遡り、鎌倉新仏教の一派として法華宗(日蓮宗)を立ち上げた当時の日蓮が、時の執権であった北条時頼に建白したことで知られる「立正安国論」を繙いてみたい。

――近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に満てり。……悲しいかな、皆正法の門を出でて邪法の獄に入る。……汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然らば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。――

日蓮は相次ぐ災禍の根本原因が浄土宗を中心とした邪法の横行にあると断定し、自らが奉ずる法華経こそが「正法」であって、その信仰下での鎮護国家(立正安国)が実行されなければ、災禍はやまず、内乱が起こり、他国からの侵略をも受けることになるだろうと予言した。内容もさることながら、その筆致の過激さもあって、時の権力者のみならず、他の宗派からも強い反発を受け、日蓮は危険人物として流罪となる。だが、その後の幕府の内紛や、二度にわたる元寇が起こったことで、日蓮の予言は正しかったのだと考える人々が増え、法華宗の信者は拡大した。その後も彼は激烈な政府批判・他宗派批判の手を緩めず、迫害を恐れないラディカルな姿勢ゆえに、後世にわたって熱烈な信奉者を獲得し続けたのであった。

莞爾・賢治・湛山の三者も、「正法」の内容というよりは、それを立てて国を安んじるという日蓮の揺るぎない姿勢に、大きく影響を受けたのではないだろうか。何を「正法」とみなすかは時代によって変化し得るが、原則を立ててブレることなく国家建設に邁進する姿は、志ある人間にとっては、いつの時代においても魅力的に感じられるはずだからだ。莞爾にとっては「五族協和・王道楽土の理想郷としての満州国建設」こそが「正法」であり、賢治にとっては「全ての生きとし生けるものが平和的に共存するイーハトーブの実現」こそが「正法」であり、湛山にとっては「自他の利益を応分に尊重する共生的功利主義に基づいた小日本主義」こそが「正法」であったと言える。そして三者ともが、ブレることなく、ラディカルに、それぞれの原則の下で「立正安国」を貫こうとしたのである。

もうひとつ特筆すべきは、日蓮が「くに」を漢字で表す際に、「國」「国」「囻」の三字を使い分けているという点だ。しかも、さほど一般的とは言えない「囻」を用いている箇所が最も多いという。「口(くにがまえ)」の中に「民(たみ)」がいてこその「国家」なのだという日蓮の考えが、文字遣いにも表れていると見るべきだろう。そして、その国家観もまた、莞爾・賢治・湛山の三者に脈々と継承されていると感じるのだ。

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