ローマ・イタリア史㉓ ~対抗宗教改革~
プロテスタントの急速な勢力伸長に危機感を覚えたローマ=カトリック教会は、新教徒側と激しく対立しながら自らの改革にも着手した。対抗宗教改革の中心となったのは、1534年にスペイン人のイグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエルによって設立されたイエズス会である。イエズス会は世界各地に宣教師を派遣してカトリックの布教に努めた。ザビエル自身も1549年に鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた。宗教改革があったからこそキリスト教の日本伝来があったわけで、世界史と日本史は緊密につながっていることを改めて実感させられる事実である。
一方でカトリック教会は1545年にトリエント公会議を開催し、教義の統一と組織の引き締めを図った。聖職売買などの悪弊は廃止され、プロテスタントとの教義の違いが再確認され、1559年には「禁書目録」が定められて思想統制が進んだ。ドイツでは1555年にアウグスブルクの和議が成立し、領邦ごとにカトリックかプロテスタントかを選択できるようにはなったが、個人の信仰の自由は認められなかった。
1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世は従来のユリウス暦を改良したグレゴリウス暦の施行を発表。イタリア・スペイン・ポルトガル・フランスなどの旧教国で導入された。オーストリア・ハンガリー・ポーランドや神聖ローマ帝国内のカトリック諸邦がそれに続いたが、新教や東方正教を奉じる国や地域ではグレゴリウス暦の導入を拒むことが多かった。現代の暦の基礎となったグレゴリウス暦の正確さは明白だったが、宗教対立が導入への心理的障壁となったのだ。しかし、その実用的価値は疑う余地もなかったため、次第に新教や東方正教を奉じる地域にも浸透し、グレゴリウス暦がグローバルスタンダードとなっていった。時間を制するものは空間を制す。対抗宗教改革の最大の成果は、グレゴリウス暦の普及だったのかもしれない。
カトリックの世界布教は15世紀末に始まった大航海時代の影響を受け、スペインやポルトガルなどの植民地拡大の先兵としての性格を帯びるようにもなる。それを警戒した日本では豊臣秀吉の禁教令をはじめとして、キリスト教徒の弾圧が行われるようになる。1585年にローマを訪れて大歓迎を受け、教皇グレゴリウス13世にも謁見した日本の天正少年使節が、5年後に帰国を果たした時には既に禁教政策に転じていた祖国で思いがけない苦難を強いられることになったという哀しい話もある。やはり世界史と日本史はつながっているのだ。
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