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連載日本史95 室町幕府(1)

1392年、南北朝の合一に成功した義満は朝廷の持っていた行政権や徴税権、外交権などの一部を幕府に接収し、権力の一元化を図った。彼は京都室町通に将軍邸を建てて移り住んだので、後に足利政権は室町幕府と呼ばれるようになる。1394年に将軍職を息子の義持に譲った義満は、太政大臣に就任し、武家の頂点と貴族の頂点の両方を極めたが、翌年には太政大臣の職を辞して出家している。これは世を捨てたわけではなく、辞職することで、公武を超越した存在となることを企図したものであろう。実際、同じ年に義満は九州探題の今川了俊を罷免し、更なる中央集権を図っている。いわば日本版絶対王政を実現しようとしていたのではないかと思われるのである。

洛中洛外図に描かれた義満の「花の御所」(Wikipediaより)

1399年、応永の乱において、朝鮮貿易を独占していた大内義弘を滅ぼした義満は、1402年、明(中国)から「日本国王」として冊封(さくほう)を受けた。中国皇帝の権威を借りることで、支配者としての自らの地位を確立しようとしたのだ。1404年には明との間で勘合貿易を開始、しばらく途絶えていた日中間の公的な交易が復活した。

勘合貿易の交通路(コトバンクより)

さらに義満は妻の日野康子を後小松天皇の准母(実の母親に準ずる存在)とし、行幸の際には天皇と並座したり、次男の義嗣の元服を皇太子に準じて行うなど、皇室の権威を自らの内に取り込んで、あわよくば皇位の奪取をもくろんでいたふしもある。1408年、彼が50才で死去し、将軍義持が彼の治世を否定したことで、義満の野望は潰えたが、もしもそれが実現していたら、足利将軍家が天皇家になりかわるという事態があり得たかもしれないのだ。

明の永楽帝から「日本国王」の称号を受けた義満
(東京法令「日本史のアーカイブより)

ヨーロッパの絶対王政の君主たちは、自らの絶対性を裏付ける根拠として、王権は神から与えられたものだとする「王権神授説」を唱えた。これは唯一絶対神の存在を前提とするキリスト教が背景にあってのことだろう。一神教の地盤を持たない日本においては、義満は自己の絶対性を裏付けるために、中国の皇帝の権威を借りるしかなかった。その「属国性」が次代の義持によって否定されたために、彼の野望は一代で潰えたわけだが、自らの権力を裏付けるために他国の権威を借りるという属国性は、今もなお、相手が中国か米国かが異なるだけで、日本の政治風土に根強く残っているような気がするのである。




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