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連載中国史27 唐(4)

710年、韋后のクーデターを阻止した李隆基は玄宗として即位し、開元の治と呼ばれる改革に積極的に取り組んだ。高祖李淵・太祖李世民以来の律令制は、土地税制の面では均田制・租庸調制、軍事の面では府兵制に基づき、中央集権の徹底を図った政治体制であったが、建国から100年を経て、土地の私有と新興地方豪族の台頭、周辺異民族の自立などが進み、内外の状況は大きく変化していた。玄宗は社会の変化に合わせて、府兵制を廃し、募兵制を施行するとともに、各地に節度使を置いて辺境の防衛に備え、政権内の綱紀を粛正し、律令制の再建と政治の安定を図った。

玄宗帝(WIkipediaより)

玄宗の改革は、初期には大きな成果を挙げた。首都の長安の人口は百万人を超え、西方からの商人も続々と集まり、当時随一の国際経済都市となった。政治・経済のみならず、文化的にも全盛期を迎えたこの時代は、歴史上の区分においても「盛唐」と称されている。

8世紀の世界(「世界の歴史まっぷ」より)

唐の勢力範囲の拡大は、西アジアにおいて勢力を伸ばしつつあったアッバース朝イスラム帝国との衝突をもたらした。751年、中央アジアのタラス河畔の戦いにおいて、唐軍はイスラム勢力に大敗し、これが唐の対外拡大政策の分岐点となった。また、この戦いで捕虜となった唐の兵士からイスラム世界に製紙法が伝わり、文化面でも中東・ヨーロッパ地域に大きな影響をもたらすこととなったのである。

楊貴妃(Wikipediaより)

対外的な分岐点がタラス河畔の戦いであったとすれば、国内政治の分岐点は楊貴妃の登場であった。息子の妃として宮中に上った彼女を玄宗は溺愛し、自らの妃として皇后と同等の地位に引き上げた。美貌だけでなく、音楽や舞踊の才能もあった楊貴妃の虜となった玄宗は、彼女の親類縁者をも次々と政権の要職につけた。露骨な閨閥人事である。開元の治を支えた賢臣たちは追いやられ、当然のごとく政治は乱れた。

安史の乱(nikkan-gendai.comより)

やがて反乱が起こる。辺境防衛のための軍事力を与えられた節度使の一人である安禄山が、その兵力を用いて部下の史思明とともに反旗を翻したのだ。755年、安史の乱である。反乱軍は短期間で洛陽を陥落させ、首都長安をも制圧する。宮廷を脱した玄宗は蜀(四川)へと敗走するが、その途上で護衛の兵達の間から楊貴妃一族の責任を問う声が激しく上がり、楊貴妃は一族もろとも殺害された。兵士達の圧力に押され、楊貴妃を殺さざるをえなくなった玄宗は失意のうちに退位し、代わって即位した粛宗を中心とした唐・ウイグル連合軍によって長安は奪回され、反乱はようやく終結をみたのである。

「長恨歌」冒頭(chugokugo-script.netより)

玄宗を惑わし、大唐帝国の政治を混乱させるほどの影響力を持った楊貴妃は傾国の美女と呼ばれた。同時代の人々にとってみれば、迷惑この上ない話であっただろう。しかし、玄宗と楊貴妃の悲恋が、白居易(白楽天)による「長恨歌」という名作を生み、それが日本に伝わって紫式部に「源氏物語」執筆のインスピレーションを与えたことを考えると、文化史的には大きな意義があったと思われるのだ。政治や経済における価値軸と文化の価値軸は同じではない。天に在りては比翼の鳥となり、地に在りては連理の枝とならん——。「長恨歌」で描かれた玄宗と楊貴妃の悲恋は、政治史上最悪の迷惑恋愛であると同時に、文化史的には後世に至るまで光を失うことのない純愛でもあったのだ。

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