インド史④ ~マウリヤ朝とクシャーナ朝~
アレクサンドロス大王による東方遠征がインド北西部をも席巻した紀元前4世紀後半、マガダ国の流れを引くナンダ朝を倒したチャンドラグプタが、ガンジス川中流域のパータリプトラを都として、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝を建国した。日本の古代史において大陸からの圧力が統一国家樹立の契機となったように、ここでも外圧による危機感が統一王朝の成立を促したのである。
マウリヤ朝の最盛期を築いたのは紀元前3世紀に王位に就いたアショーカ王である。インド中南部にまで勢力を伸ばした王は、ベンガル湾に面したカリンガ地方を征服した際に大虐殺を行った。しかし、その時の惨劇を省みて武力による統治に限界を感じた王は、ダルマ(仏法)による統治を王国の基本方針とし、仏教に深く帰依して仏典結集などの事業を行ったのである。王による保護の下で仏教は広く各地へと伝播していったが、その過程で教団の分裂も見られるようになった。王の死後、マウリヤ朝が衰退すると、国内の分裂とともに、仏教内部の分裂も更に進むことになる。
紀元前2世紀にはマウリヤ朝が崩壊し、インドは小国分立の状態となった。北西インドはギリシア系のバクトリア、北インドはイラン系のサカ族の支配を受け、中南部ではドラヴィダ人の建国したサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)が季節風による海上交易で栄えた。紀元前1世紀中頃には、イラン系のクシャーン人がインド北西部を中心としたクシャーナ朝を樹立した。クシャーナ朝の都はプルシャプラ。すなわち、現在のパキスタンとアフガニスタンの国境近くにあるペシャワールである。現代における同地域での旱魃や内戦による飢餓を救うため、ペシャワールに拠点を置いて現地での井戸掘りや灌漑事業に尽力した日本人の中村哲医師が、2019年末に狙撃されて命を落とした事件は記憶に新しい。かつてそこは、北西インドの王朝の首都であり、古代の日本人が憧れたガンダーラ美術発祥の地だったのだ。
クシャーナ朝最盛期を築いたのは2世紀に王位に就いたカニシカ王である。マウリヤ朝のアショーカ王と同様、彼も仏教を手厚く保護し、仏典結集などの事業を行ったが、この時代には仏教内部の分裂は決定的なものになっていた。修行を通じた出家者個人の悟り(解脱)を重視する上座部仏教はスリランカを経て東南アジアに伝播し、南伝仏教と呼ばれるようになる。一方、菩薩信仰を通じた慈悲による衆生救済を旨とする大乗仏教は、ナーガルジュナ(竜樹)によって理論的に大成され、中国・日本へと伝わって北伝仏教と呼ばれた。
仏教はその後、本家のインドでは衰退していくものの、広くアジア一帯で信仰され、各地の文化に大きな影響を与えた。また、現在のインドの国旗にもヒンドゥー教を示すオレンジ(サフラン)色、イスラム教を示す緑色、諸宗教の融和と平和を示す白色の三色旗の中央に、アショーカ王のチャクラ(法輪)と呼ばれる仏法の象徴が配置されている。インド最初の統一王朝であるマウリヤ朝と、その精神的支柱となった仏法は、今もなおインド統合の象徴的存在であると言えよう。