見出し画像

意外と知らない、仏教の「懺悔」

キリスト教では「懺悔」を「ザンゲ」と発音します。
一方、仏教では漢字は同じでも「さんげ」と、読みが異なります。
今回のテーマは仏教の「懺悔」についてです。

■ナーランダー教育の生き証人

日本の仏教にも、もともと懺悔の伝統解釈があったはずなのですが、私たちが現在、ネットや書籍などで触れる知識は、キリスト教的な「ザンゲ」の影響を色濃く受けています。
そこが、この語の意味をより、分かりにくくしています。

日本仏教の学問伝統は、明治以降に西洋から輸入された「仏教学」という、まったく異質なフレームワークによって塗り替えられてしまいました。

一方、チベットではインドで失伝した仏教が、ほぼ完璧な形で残りました。
しかも経典というテクストだけでなく、それらを日々実践し、後世に伝えている僧侶が存在し、インドのナーランダー僧院(龍樹をはじめとする学僧を多数輩出した、大乗仏教の礎)から続く学問伝統が、現代に脈づいています。

チベットが誇るのは、この点です。つまり「ナーランダー僧院の伝統教育を継承している」という誇りが、今日のチベット仏教の特徴といえます。

日本でも最近では、こうした活きた学問伝統を学ぶことで、逆に日本仏教を(同じ大乗仏教として)リフレッシュさせようという動きもあるくらいです。

チベット仏教は、中共のチベット侵攻で亡命した高僧・学僧たちによって欧米の地に花開き、西洋における仏教学をより発展・進歩させました。

しかし「仏教」をまるで知らない、キリスト教文化圏の人々に紹介させる作業は、かなり困難だったようです。
そして彼らの苦労を知ることは、日本人にとって「昔の日本にもあった、本来の仏教」を探っていく上で、大いに参考になります。

なぜならば、現代の私たちの仏教理解は、もはや欧米人と同じレベル(かそれ以下)にまで、希薄になってしまっている可能性があるからです。

私自身、大学では印度哲学を学んでいましたが、ここ(note)ではそういった日本のアカデミズム的「仏教学」とは距離を置きたいと思います。

チベットの伝統に沿った解釈で「信仰と一体である仏教」をベースにしているのが、気吹乃宮です。

■懺悔は「クシャマ」ではない

「懺悔」(さんげ)は、西洋人が理解しにくい仏教語の1つですが、実は日本人にとっても、この漢字の存在が意味を分かりにくくしています。

日本で出版されている仏教辞典を見ると、語源としてサンスクリット(梵語;古代インドの聖典語)の「クシャマ」(kṣama)という語に相当する、と記載されています。

しかしこの「クシャマ」は、釈尊が規定した出家僧(比丘)のための集団ルール、すなわち『律』に使われる言葉です。ルール違反をした僧は、釈尊の前でコトの詳細を説明して反省し、処分を待つのです。

「クシャマ」はもともとの「耐える」という意味から派生して、「許す」「免じる」という意味で使われます。現代のインドでも日常的に使います。ヒンディー語で「どうかお許しください」といったフレーズなどです。

しかし釈尊の教団内ルールにおける「懺悔」の「クシャマ」は、いわば出家集団内でしか通用しない「法律用語」であり、今日の私たちの仏教(大乗仏教)における懺悔と同列に扱うことはできないでしょう。

逆に、広い意味での「懺悔」として大乗経典で使われるもう1つのサンスクリットがあり、それは「デーシャナ」(deśana)です。「デーシャナ」には、「述べる、告げる」という意味があります。

ナーランダー僧院の学匠、シャーンティデーヴァ※(寂天)が著した『入菩薩行論』(ボーディチャリヤ・アヴァターラ)にも「デーシャナ」は頻出しますし、『華厳経』の中の『普賢行願讃』(バドラチャリヤー・プラニダーナ)でもこの語が登場します。

※シャーンティデーヴァ(Śāntideva;寂天)
8世紀のインドの学僧、聖者。八十四の大成就者(マハーシッダ)の一人。
ナーガールジュナ(聖龍樹)と共に、ナーランダー僧院の中観派の学匠。菩提心について解説した『入菩薩行論』が有名。

わかりやすい例として、日本でお馴染みの「懺悔文」(下記)があります:

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

実はこの「懺悔文」は『普賢行願讃』の中の一節なのですが、原文(サンスクリット)では「デーシャナ」が使われています。
しかしこれを「懺悔」と漢訳するかしないかは、翻訳僧によって解釈が分かれました。

たとえば不空金剛(705-774;弘法大師空海に密教を伝法した恵果阿闍梨の師匠)はこの詩句を「懺悔」とは訳さず、「陳説」と漢訳しています。不空訳は「デーシャナ」本来の意味を踏まえているといえます。

さらにややこしいのは、先ほど述べた釈尊の規定した『律』にも「デーシャナ」が懺悔の「法律用語」として登場するのです。
その場合、比丘が面前で「告白します」という際に使われます。
つまり「デーシャナ」も「クシャマ」も、どちらも「比丘の懺悔」の一連の作法の中で使われる特殊用語になります。

そもそも私たちは比丘でも僧侶でもありませんから、『律』のような懺悔の儀礼は必要ありません。そこを踏まえた上で、「懺悔」の意味を(いったんリセットして)再構築しないと、言葉上の空論に終わってしまいます。

ここでは私たちが今日、必要とする「懺悔」について、述べることにします。実際にチベット仏教で(法律用語でない、広い意味での)「懺悔」がどのように解釈され、実践されているかを、フォーカスしていきます。

■懺悔とは「認めて、手放し、脇に置く」

欧米人は当初、仏教の「懺悔」を「confession」(告白)と英訳しました。
しかし西洋社会を熟知したチベットの高僧、チューギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa;1939-1987)は、「告白」という訳語はまったくふさわしくない、と指摘しています。

古のチベット人翻訳官は大変優秀で、「懺悔」に相当する言葉として「トルロ・シャク」(mthol-lo bshags)という2つの単語を組み合わせることで、翻訳しました。

「シャク」(bshags)というチベット語は、「表明する、宣言する」という意味です。
つまり、サンスクリットの「デーシャナ」をそのまま置き換えたのです。

さらに意味をハッキリさせるため、「トルロ」(mthol-lo)という語を前にくっつけたのですが、この語には「認める」という意味があります。

つまり「自分の犯した罪を認めた上で、それを秘密にせず、表明し、さらに手放して脇に置く」という、懺悔のもつ意味合いをそのまま翻訳に当てはめたのです。それが「トルロ・シャク」になります。

そこでより正しい英語では、仏教の「懺悔」を「lay down one's downfalls」(罪を脇に置く)と訳したりします。「confession」を用いるとキリスト教と混同してしまうためです。

■4つの力

では、どうやって「懺悔」が成立するのでしょうか?
チベット仏教において懺悔は、伝統的に「4つの力」を用います。

1.対象の力
2.過去になした罪を後悔する力
3.もう二度と罪を犯さないと罪を食い止める力
4.解毒剤(対治)の力

1番目の「対象」とは、「罪を表明し、脇に置く」際の、目撃者です。
一般的にはお釈迦様や金剛サッタなど、仏教の仏陀・菩薩となります。
ここでは対象に対する敬信と、菩提心を起こすこと(自分の懺悔は他の生き物の利益のためにも行なう、という決意)が含まれます。

2番目は、輪廻している中でずっといろんな罪を積んでいるわけで、思い出せるものも思い出せないものも含めて、激しい後悔の心を起こすことです。

3番目は、最も大切とされる「力」です。この「力」がないと、懺悔は成立しないとされます。

4番目の「解毒剤」は、仏教語で「対治」(たいじ)と呼ばれます。
もう二度と罪を為さないための、解毒剤です。
実際には、懺悔をする上で用いられる経典や、瞑想法のことです。仏教では、懺悔のための様々な祈りの儀礼や、経典があります。

たとえば顕教では『三蘊経』を唱えますし、密教では金剛サッタの念誦をします。

こうした4つの力を総合的に使うことによって、自分の罪を認めて、手放す(脇に置く)のです。

■懺悔と、師の存在

以上をまとめますと、僧や師の前で罪を告白して・・・というイメージの懺悔は、出家教団の『律』に基づくものであり、それは「法律用語」としての「比丘の懺悔」でした。
現在の私たちに必要な懺悔とは、「4つの力」を用いて罪を悔い、食い止め、さらに浄化することでした。

先んじて「何が善で、何が不善なのか」の正しい取捨選択ができなければ、懺悔としては成り立ちません。その正しい取捨選択を示してくれる存在に、仏教の師がいます。

教えを実践した「生き証人(上人)」である目の前の師を見れば納得できるというのが、チベットの仏教でした。師が難解な仏教を体現した存在となるために、「信じて実践すれば、いつかこうなる」というマイルストーンになるのです。

しかもそれは、妄信的に師を信仰して依存するということでは、決してありません。目の前の「生き証人」に納得するかしないかは己(おのれ)自身の判断であり、「あっちには進みたくない」という標石へは、歩むだけ時間の無駄というものです。

「師に自分の罪を告白して、罪を背負ってもらう」というのは、仏教の懺悔ではありません。解毒剤を処方するのは師ですが、それを飲むか飲まないか(実践するかしないか)は本人だからです。

たとえば「十不善」(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・ 瞋恚・邪見)という10の悪業がありますが、これは釈尊が定めた「戒律」ではなく、サンスクリットで「アワルギャ」(「口に出して言えない」の意)と呼ばれ「口に出すのも恥ずかしいほど秘密にしたい、誰が規定したわけでもない自然で、常識的な罪」のことです。

つまり仏教徒というのは、古代インドからすでに、ある程度の常識とモラルが己れに必要とされていたのです。
たとえば「どうして人を殺しちゃいけないのか」という質問をする時点で、アウトだったのですね。

しかしそういったモラル自体も、現代の日本では、危うくなっています。

その上で、さらに「なんで懺悔をする必要があるのか?」と思える心を、どう作っていけばいいのでしょうか?

現在の私なりの答えは「正しい情報を、とにかく発信していく」ことです。

そうしていくことが、チベットの師匠たちから恩を受けた、せめてもの報いになると考えています。

わたしは無知・愚かさによって犯した
「自然の罪」(十不善)や
「釈尊によって規定された罪」など
何であれ、罪の可能性のあるもの
すでに罪をなしたもの一切を
守護者(仏・菩薩)の面前で
正直に、合掌しつつ
(六道輪廻の)苦と
(地獄に落ちること)への恐怖心から
(激しい後悔の念で)繰り返し礼拝し
それらの罪すべてを、懺悔します。
諸々の師(仏・菩薩)がわたしの罪と錯誤を
受け止めてくださいますように。
これは不善なるがゆえに
今後わたしは、再び犯さないと約束します。


シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』
翻訳:気吹乃宮


画像1

写真(2枚):
いずれもナーランダー僧院遺跡(インド、ビハール州)。筆者(気吹乃宮)撮影。


サポートは、気吹乃宮の御祭神および御本尊への御供物や供養に充てさせていただきます。またツォク供養や個別の祈願のときも、こちらをご利用ください。