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バルカン半島史⑯ ~ビザンティン帝国~

3世紀に地球全体の寒冷化が起こり、中央アジアの遊牧民が東西への大移動を始めた。その影響でヨーロッパでも民族の大移動が起こり、そのあおりを受けて476年に西ローマ帝国が滅亡した。バルカン半島を含む東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、西ローマ帝国に比べて民族移動の影響が小さかったため辛うじて存続したものの、ローマ色は薄れてギリシャ化が進んだ。ビザンティン(ビザンツ)帝国と言う名称も首都コンスタンチノープルのギリシャ時代の名称であるビザンティオンに因んだものである。6世紀にはスラブ民族の南下に悩まされながらも、ユスティニアヌス帝の時代には、西ローマ帝国の旧領に建国されたゲルマン人諸国家と戦って、一時はローマ帝国のほぼ全版図を回復した。しかし、その後は、北イタリアのランゴバルド王国に西方の領土を奪われ、北方ではスラブ系のブルガリア王国やモラヴィア王国、東方ではササン朝ペルシアからも侵略を受けた。さらに7世紀以降は西方のイスラム勢力によってシリアやエジプトも奪われ、ローマ帝国の正式な継承者を自称しながらも、その領土はバルカン半島と小アジアのみとなるまでに縮小したのである。

領土の縮小は帝国の統治システムにも変革をもたらした。かつての属州制度は姿を消し、地方の軍司令官が行政と司法を掌握する軍管区(テマ)制が主流となった。兵士たちには土地が与えられ、平時は耕作をしながら、戦時には自己負担で装備を持参して戦う屯田兵制が採用されたのである。

西ローマ帝国は5世紀に滅んだものの、帝国の国教として勢力を拡大していたキリスト教の総本山としてのローマ教会は存続し、東方のコンスタンチノープル教会との主導権争いが頻発した。726年、西方からのイスラム勢力の侵入を撃退したビザンツ皇帝のレオン3世は、急拡大するイスラム教に対抗してキリスト教の原点に立ち返ろうと聖像禁止令を発令する。この政策には免税特権を持つ大教会や修道院を抑える意図もあったが、西ヨーロッパに拡大していたゲルマン系部族たちに対して聖像を利用した布教を行っていたローマ教会との対立が激化した。聖像禁止令はレオン3世とその後継のコンスタンティヌス5世の死後には撤回され、ビザンティン帝国ではイコン(平面の聖像)が認められるようになったが、東西教会の溝は埋まらなかった。やがて西方教会はローマ・カトリック、東方教会はギリシャ正教(東方正教)と呼ばれるようになり、前者は西欧、後者はバルカンから東方ロシアへと勢力圏を広げ、互いの棲み分けが進むようになる。

「カトリック」も「正教(オーソドックス)」も、「正統」を意味する言葉だ。いわば「本家」と「元祖」のようなものである。両者の対立は当事者にとっては切実なものであっただろうが、信者でない者から見れば不毛な争いに見えてしまう。だが、それによって教会同士の競争が促進され、結果としてキリスト教全体の勢力拡大につながった面も否めない。ともあれ、ビザンティン帝国の首都に鎮座するコンスタンチノープル教会は、東方正教会の総本山として、中世東欧世界の精神的バックボーンとなっていくのである。

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