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連載日本史254 朝鮮戦争(3)

サンフランシスコ平和条約と同日に調印された日米安全保障条約は、極東の平和と安全の維持、日本における大規模な内乱や騒擾の鎮圧、外部からの武力攻撃に対する日本の安全への寄与を目的として、独立後も日本国内への米軍の駐留を認めるものであった。さらに米軍駐留の条件を具体的に定めた日米行政協定では、米軍基地の用地供与や、駐留に必要な便宜の提供、米兵とその家族に対する治外法権など、米軍の特権的な地位が保障された。日本の安全保障の一部を米軍が肩代わりするという大義名分のもと、部分的にではあるが、かつての不平等条約が復活したと言える。それは現在の基地問題に連なる、長く重い桎梏の始まりでもあった。

日米安保条約の歩み(okinawatimes.co.jp)

国会では、与党の自由党と国民民主党が平和条約・安保条約の双方に賛成、社会党は単独講和を容認し平和条約には賛成するが安保条約には反対する右派と、全面講和を主張して両方に反対する左派に分裂した。共産党は全面講和を求めて両方に反対。特に安保条約は、その後の日本の政治に激しい対立を引き起こす争点のひとつとなっていったのである。

在日韓国人・朝鮮人の長期推移(honkawa2.sakura.ne.jpより)

朝鮮戦争は日本の独立と経済復興を早めたが、その分だけ後世に対立の根を残すことにもなった。また、「休戦」のまま次世紀にまで持ち越された南北朝鮮の対立は、その後の日本の歴史にも大きな影を落とすこととなった。大戦直後の日本には、植民地時代に移住したり強制的に連行された朝鮮人が約240万人いたと推定され、日本の敗戦を機に多くの人々が朝鮮半島へ帰還したものの、朝鮮戦争の勃発もあって約60万人が日本にとどまっていた。それが1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本国籍を失い、在日韓国・朝鮮人として外国人登録法の適用を受けることになったのである。こうしてみると、国籍とは個々人に固有の属性に基づくものではなく、時代の変化によって恣意的に決められる不安定な政治的要素にすぎないということを改めて思い知らされる。国籍は法律的には重要な要素であり、パスポートなどの公的な身分証明の際には必要不可欠ではあるが、自己のアイデンティティーの土台とするには甚だ心もとない存在なのである。

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