麻雀を教えている人と、教わっている人へ

強くなりたい?それならコツコツ努力することが重要だ。

結果が運に大きく左右される麻雀というゲームでも、結局のところ強くなるには地道に知識を得たり経験を積んだりと、「積み上げる」ことが大切になる。何事もコツコツ積み上げるのが遠回りに見えて一番の近道なんだ、とは何事にも言えることなのだろう。

実際にそれは間違っていないのだと思うけれど、「積み上げる」という言葉には、少し誤解を生みかねない注意点がある。

この誤解を持ったままだと、麻雀を教える、あるいは教わる際に両者に軋轢が生みかねない。だから、この記事は特に今誰かに麻雀を教えている人・教わっている人向けにその誤解について書いていく。

さて、「積み上げる」を図でイメージすると、多分こんな感じだろう。

スライド1

最初は皆初心者だ。一番下から、少しずつ練習や学習、経験を積み重ねて上達していく。最初は初級クラスの実力でも、知識や経験、練習を「積み上げる」ことで上級クラスの実力に上がっていく。

しかし、現実にはこのイメージは少しだけ間違っている。上達のイメージは実際にはこんな風にはなっていない。より正確なイメージとしては以下のようなものになる。

スライド2

違いが分かるだろうか。

何か一つ積み上げると、引き換えとしてそれまで持っていた初級時代の感覚・状態を一つ失う。「積み上げる」という言葉は累積していくというイメージがあるが、何かを得て上達する度に、それが出来ていなかったときの感覚や状態を失っていく。

経験や知識による上達は不可逆的(一方通行であり、元に戻れない)だということだ。

人は何かが分かる度に、分かっていなかった状態に戻れなくなる。できるようになる度に、できていなかった状態に戻れなくなる。理解や上達は一方通行で、上級者は初心者には戻れない。強くなった頃には、弱かった頃の自分を忘れている。

例えば、この文章を読んでいるあなたは常用漢字をスラスラと読むスキルがあり、全人類の中では漢字上級者と言っていいだろう。しかし、「漢字を読めていなかった幼い頃の漢字初心者状態に戻って文章を読んでみて」と言われても戻れない。勝手に脳が漢字の読みを理解してしまう。

だから、例えば「ひらがなはなんとか読めるけど常用漢字は読めない」という外国人がいたとしても、自分がその人と同じスキルに戻ることはできない。

「外国の方にとって漢字は難しいと言うし、その人にとっては実際に難しいのだろう」という理解・推測はできる。しかし「確かに漢字って難しくて読めないよね」と実感ベースで共感することはできない

麻雀においても、上級者は初心者と同じレベルに戻って初心者の困難を体感することはできない。これを誤解したままだと、教える側と教わる側で軋轢が生じかねない。(※以降、分かりやすくするために教える側=師匠、教わる側=弟子と表記する。勿論、実際に本当の師弟関係でなくても構わない)

基本的に麻雀が強い人が師匠になる。そして、初心者が弟子になる。大抵の場合、師匠に求められるのは「麻雀のスキル」であって、「教えるスキル」ではない。弟子も、師匠が「教えるスキル」があるのかは重視していないことが多い。

「なぜ〇切りの方がいいのか?」「なぜリーチした方がいいのか?鳴いたほうがいいのか?」「なぜそう考えるのか?」 

こんな質問に、師匠はなるべく弟子が理解できるように教えるだろう。弟子もなるべく教えを吸収しようと素直に受け止めるだろう。

しかし、何度もやりとりを重ねていくうちに師匠には疑問が浮かびだす。

「同じようなことを前も教えたはずではないか?」「なぜ以前教えたことができていないのか?」「なぜこんな簡単なことが分からないのか?」

さてこれに対して、弟子にも言い分がある。

「同じようなことを前も教えたはずではないか?」

→そもそも一度教わっただけでできるようにはならない。また、師匠が過去に教えた牌姿Aと今教えた牌姿Bを抽象的に「同じようなこと」と捉えていても、経験の浅い弟子からすると牌姿Aと牌姿Bは具体的には違う牌姿であり、「同じようなこと」とは捉えられなかったりする。

「なぜ以前教えたことができていないのか?」

→答えは単純で、数回程度教わったからといってすぐにできるようにはならない(※参考)。

「なぜこんな簡単なことが分からないのか?」

→師匠にとって簡単なことであっても弟子にとっては全く簡単なことではない。師匠が弟子のレベルを体感できないから「簡単」と表現しているだけで、弟子からすると全く簡単なことではない。

最終的に師匠は「(弟子が)分からない意味が分からない」という境地にたどり着く。まさにこれは師匠が分からない状態に戻れないからこそ生まれる言葉だ。

弟子としても、師匠は上級者(=初心者も兼ねる、初心者だった頃を体感・共感してくれる)だと思っているので、自分に対して教えることはできると期待してしまっていたりする。

お互いに言い分があるので、場合によっては師匠が教えるのを嫌になったり、弟子が委縮して教わるのを諦めてしまったりして、師弟関係がうまくいかなくなったりする。

では、どうすれば師弟関係がうまくいくか。

ここまで、師匠は弟子のレベルを体感できないと説明したが、それでも教えるのが上手い上級者は沢山いる。まるで弟子が感じている難しさを体感できているかのようにピンポイントにアドバイスをする人もいる。

そういった師匠は

・そもそも「教える」というスキルが高い

・言語化能力が高い

・弟子の困難の推測が上手い

といった特徴を持っている。

そもそも教えるという行為はそれ自体にスキルの必要な行為だ。

教えるスキルが高ければ「なるべく小さい単位に分けて教える」「教えたからといってすぐできるようにはならない前提で教える」「教えるときの言い方を工夫する」「例えを使って説明する」というようなことができる。

そして、教える際には言語化も重要になる。例えば弟子がベタオリした牌譜を見て、これは押し有利だと指摘したとする。なぜ押し有利なんですか?と聞かれると言語化できない(時間がかかる)人も結構いる。

上級者が知識と経験で培った状況判断は盤面を見た際、脳内で瞬時に生成されている。

その判断に至る理由・要素を一つずつ(大きな漏れも無く)言語化していく作業は、人によってはかなり難しい。人によっては「場況がいいから」とか「流石にこれはオリれない」といった弟子からするとほとんど何を言っているのか伝わらない形で教えざるを得なかったりする。

「場況がいいから」ということ自体は正しい判断でも、どこをどう見て場況がいいのか?というポイントを逐一言語化するのは意外と難しかったりする。

また教えるのがうまい人は、弟子の困難を体感できなくても、推測が上手い。

例えば、麻雀を知らない人に麻雀を教える経験を積んでいくと、「ピンフという役の成立条件を難しいと感じる人が多い」「符計算でつまづく人が多い」というように「初心者が難しいと感じやすいポイント」のデータが集まっていく。

そうしたデータが集まっていると、似たようなつまづき方をしている人に対しても的確に根気よく教えることができる。沢山麻雀を教えたことがある師匠ほど、経験とデータを用いて「今の自分はなぜ難しいのか分からないけど、ここが難しいという人はよくいるし、相手にとっては難しいのだろう」と推測して教えることができる。

このように、お互いに麻雀の体感レベルが相容れないという前提に立って教えたり教わったりすることで、余計な軋轢を生まずに良好な師弟関係を保つことができる。

なお、ここまで書いた内容(特に後半の師匠側のスキルについて)は理想論であって、そうじゃない人が教えてはいけないとかそういうことではない。書いた内容を徹底しようとすると明らかに師匠側の負担が大きくなるはずだ(弟子側も上手な質問の方法など、工夫すべき点はいくつもある。このあたりは別のnoteで機会があれば書く)。

ただ、せっかく麻雀という同じ楽しさを味わってる人同士が、ちょっとした誤解のせいで関係が悪くなったりするのはとても悲しいことだ。この記事で何か一つでも気づきがあったら嬉しい。

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