麻雀のメンタル崩壊パターンと、メンタルがミスに与える影響


麻雀はメンタルがブレてしまうと本来の力を発揮できなくなる。

普段なら出来ていたはずの押し引き判断ができなくなる、普段なら見えていた受け入れや変化を見逃す、染め手に気付かず突っ込む。

皆さんにも経験があると思う。

麻雀はメンタル大事!ということはよく言われる。

しかし、具体的にどのようにメンタル崩壊が訪れるのか、なぜメンタル崩壊が起きるのか、どうすればメンタル崩壊に対応できるのか、メンタル崩壊はどのように打牌に影響するのか、ということはあまり語られていない。

ということで今回はメンタル崩壊について深く考えていく。

メンタル崩壊とは

麻雀でのメンタル崩壊と聞くと、どのようなことをイメージするだろう。

・負けが長く続き、イライラして打牌が雑になる。

・放銃が続き、また放銃するのではないかという恐怖で危険牌を押せなくなる。

・明らかな幸運が続き、普段しないような大振りのプレイをする。

・一日で失ったポイントを取り戻そうと、普段しないような長時間のプレイをする。

など、色々なケースが考えられる。

メンタル崩壊と一言に言ってもその内容は様々だ。怒りに囚われているのか、恐怖に怯えているのか、全能感に酔っているのか。様々なパターンがある。

まずはこれらのパターンを整理してみよう。メンタル崩壊と一括りに呼ばれる状況を具体的に分析し、傾向と対策を考えていく。

パターン1.不公平への怒り

パターン1からパターン4までは怒りの感情によるメンタル崩壊のパターンだ。

まずは、不公平への怒りというパターンだ。比較的よくあるタイプのメンタル崩壊で、話者にとってはメンタル崩壊という言葉がまさにこの状態を指していることも多い。

これは対局中に起きる出来事があまりにも不公平だと感じて怒りを引き起こし、その怒りの感情のせいでパフォーマンスが下がるパターンだ。

「自分だけ放銃する」「自分だけあがれない」「自分ばかり親被りする」「めくりあいにまず負ける」というように、なぜか自分ばかりが不遇な目に合うという感覚から怒りの感情が引き起こされる。

不公平に対して怒りを感じること自体は普通のことだ。問題はその出来事たちを「不公平」だと認識する点にある。

麻雀においてある出来事が不公平なのかどうかを判定するには少なくとも以下の3点への理解が必要になるはずだ。

・自分の実力

・相手全員の実力

・運および分散

つまり自分の実力や相手3人の実力を完全に把握し、それらと運による分散が組み合わされた結果として考えて、なお不公平だと言えないといけない。

相手が強いなら結果的に自分にとってよくない出来事が起こる可能性は高まる。それが運や分散の範疇なのかも考えないといけない。

しかしこの3つを適切に理解することは非常に難しい。現実的に不可能だと言っていい。

まずプレイヤーの実力を理解するには長期での成績を把握しないといけない。

麻雀は運の影響が大きいため、実力を測るには数千ゲーム単位の成績が必要になる。

仮に数千ゲームの成績があったとしても、それだけ対局すれば途中で実力が変化するのが妥当なのでうまく測れているとは言いにくい。

それもこれを自分だけではなく相手全員分を理解していないといけない。この時点でかなり無理がある。

さらに、その出来事が全員の実力を照らし合わせた上で、運や分散の影響とは言えないレベルの不公平な出来事だと判定する必要がある。

これも非常に難しい。何連ラスまでいけば不公平だと言い切れるのか?何連続放銃すれば「確率的にありえない」なのか。

明確に答えを出せるプレイヤーはそういないだろう。

少なくとも、一局での出来事で不公平と断じるのは不可能だ。

仮に東一局で先制リーチした先で役満に放銃したとしても、運と分散を考えるとそのくらいのことは起きてもおかしくない。これもまた麻雀、で済ませるのが望ましい。

そもそも麻雀は、プレイヤーが不公平感を感じやすい構造になっている。

例えば、自分が幸運で高打点をあがったとしよう。

その際、その結果は自分は手牌から1枚切るという選択をし続けた結果として認識する。

能動的に選択した結果起きた事象を前にすると、自分の実力が反映された、という感覚になる。

そのため、自分の幸運に気付かずに自分の実力の結果だと認識する。

一方で、自分のミスによって悪い結果を招いた際に、それを自分のミスのせいだと認識するのは難しい。

ミスには自覚できないタイプのミスがあり、自覚できないミスはそもそも認識するのが無理だからだ。

これが積み重なると、良い結果は実力で悪い結果は不運だという認識に至る。

加えて、人間の記憶の仕組みもまた麻雀で不公平感を生み出しやすい構造になっている。

そもそも人間は良い出来事よりも悪い出来事の方をよく覚えている。

3連トップを取ったことよりも3連ラスを引いたことの方をよく覚えている。

幸運の記憶は蓄積されにくく、不運の記憶は蓄積されやすいのだから、その分不公平感を感じやすくなる。

ではこの不公平への怒りにどう対応するか。

まずは麻雀における実力と運の関係をよく理解することから始まる。麻雀は数百戦単位での好調や不調が起こるほど運の要素があるゲームだ。

多くのプレイヤーが思っている以上に連続して理不尽なことが起きる。このようなことがあっていいのかと思えるようなことも起きる。

まずはそういうゲームだと理解し、自分がその沼に足を踏み入れようとしていることを意識する。

さらに、麻雀を上達したいと思っているのであれば上達の努力を怠らないことも重要だ。

不公平に訴える。それは努力しないことへの言い訳になる。

不運で負けたのなら仕方がない。本気でそう思うのであれば対処法はないし、対処しなくていい。

しかし強くなりたいと思っているのであれば、不公平に訴えた時点でそこから得るものはなくなる。それは単純に学習機会の損失になる。

そう考えると、メンタル崩壊を起こしている場合ではなくなる。

また、自分が不公平への怒りを感じていることを経験すること自体が学習機会になる。

牌効率の問題や押し引きの問題は戦術書や牌譜検討で何度も経験することができる。

しかし、自分が怒りを感じているときの判断の変化はまさにその状態でないと経験できない。

感情は個人差があるので一概に語れない。一般化されない自分なりの解消法も存在するかもしれない。

何が起こって自分が不公平感を感じたのか、観察して対応する機会は座学では与えられない。

自分をモニタリングする良い機会だと捉えることができれば、後の改善につながる。

パターン2.自分のミスへの怒り

パターン2つ目は、自分のミスへの怒りによってメンタル崩壊を引き起こすパターンだ。

麻雀に真剣に取り組んでいる人、ストイック傾向、完璧主義傾向にある人に起きやすい。

怒りという感情は対象との対立によって起きる。多くの場合その対立は対戦相手との間に生まれるが、このパターンの場合は自分自身との間に対立が生まれる。

ストイックなプレイヤーはゲームを「自分自身との闘い」と表現することがあるが、まさに自分との闘いにおける闘争心が過剰になり怒りになっているようなイメージだ。

自分がミスをした際に、「なぜこんなミスをしてしまうのか」「この調子じゃ強い人にはなれない」「今日一日のポイントが台無しになった」など、強い自責が生まれてその怒りに囚われてしまう。

対局中にミスを反芻してしまい更なるミスを生んでしまったり、それが続いてそもそも麻雀をするモチベーションを失ってしまったりする。

ある意味で、ミスをしてイライラするのは普通だとも言える。プレイヤーには理想のプレイがあり、それが実現できずに落胆や怒りが生まれるのは自然ですらある。

これらの感情は適度であれば今後努力するモチベーションにもつながる。問題は怒りの頻度と程度にある。

このタイプのメンタル崩壊を起こす人は多くの場合、完璧を期待しすぎている。

自分が学習・努力した結果をすべて発揮することができ、その結果オーラス最後の一打までパーフェクトな判断ができ、それが何ゲームも続くと期待している。

しかし現実にはそれは起こりえない。

どれだけ強いプレイヤーでも、プレイの出来にはムラがある。

そもそも何をもってミスではないと判定するのかも分からないほど麻雀は奥深い。究極的には誰も正解を知らないし、誰も完璧になどなれないゲームだ。

多くの人は他者が「完璧なプレイをした」と言うとまず疑うだろう。そんなことは起こりえないと知っているからだ。

しかし実際に自分が打つと知らない間に完璧なプレイへの幻想が生まれてしまう。完璧なプレイなどできないと割り切っていた方がメンタル崩壊を生み出さないだろう。

もう一つ、このタイプの怒りを生み出す人がよく持っているのが麻雀の学習プロセスに対する誤解だ。

特に「選択した瞬間に自覚できるようなミス」の発生メカニズムに対して誤解を抱いている。

皆さんも経験あるだろう、「切った瞬間にそれが間違っていると気付く」、「自分でもそれを切るのはないと思いつつもなぜかその牌を切ってしまう」などの自覚できるタイプのミスだ。

こういったミスは「なぜ分かっているのにできないんだ」という自責を生みやすい。しかし、こういうミスは上達過程において必ず発生する。

そもそも麻雀の上達は以下のように進む。

①知らないからできない

②知っているけどできない

③知っていることを意識すればできる

④意識せずともできる

まず最初に知識として存在できないものはできるようにならない(①)。そしてそこから知識をつける。

しかし知識があってもできない期間がある(②)。

やがて知識を意識することでできるようになる(③)。

そしてさらに習熟すると意識せずともできるようになる(④)。

パソコンのブラインドタッチを例にして考えてみる。

まずは、キーの配置を知らないことにはタイピングはできない。そして、キーの配置を覚えたとしても、すぐにブラインドタッチはできない。

Pのキーが右上にあることを知っていても、必要なときにPを即打つのは難しい。

練習をするうちに、少しずつではあるが意識して集中すればできるようになっていく。

しかし、このフェーズでは意識しているからこそできている状態なので、例えば誰かから話しけられたりして意識を遮られると途端にできなくなる。

さらに練習を重ねるうちに、意識せずともできるようになり、最終的には誰かと話しながらでもキーを打てるようになる。

このように4つのフェーズを進むことで麻雀も上達していく。

ここで注目したいのが②の知っているけどできないというフェーズだ。

自覚できるミスに敏感なプレイヤーは、「知っているのだからできるのが当たり前だ」と考えている。

しかし知っていることとできることはイコールではない。

過去に解くことができた何切る問題と全く同じ牌姿が実戦で出てきても、その場でできるとは限らない。

成長過程にある②のフェーズにいるのであれば、できなくても全くおかしくない。

さらにこの問題を大きくしているのが持ち時間というルールだ。

麻雀は一つの判断に大量の時間を投下できない。

何切る問題を1分考えて正解できたとしても、それは実戦で他の情報もあるなか十数秒で何を切るか選択できることを意味するのではない。

何切る問題は時間制限もなく、その問題に集中して解くのが普通だ。しかし対局では状況が違う。

仮に②のフェーズを超えて③のフェーズに到達していたとしてもなお、意識する時間がないと対応できない。

つまり(キーを叩いている途中に誰かから話しかけられるように)河や点数状況など他の情報を考えることに意識を割かれると、手牌に意識を割く時間が減りうまく選択できない。

よって④のフェーズまで成長しないと実戦でミスを犯さないといえるレベルではない。

しかしプレイヤー(特に知識の獲得を意識している人に多い)は自分が②や③のフェーズにいる状態でも④のフェーズまで到達したと誤認しがちだ。

そこで自分のミスへのギャップが生まれ、怒りが生まれる。

「知っている」と「できる」には実は大きな差があり、超えるにはそれなりの訓練が必要だと理解していないと、自覚的なミスを許容できず怒りにつながる。

まずはこのように上達のメカニズムを知ることが大切だ。

ミスが生まれ、それを自覚できることは少なくとも成長過程にあるということだとも言える。その調子で練習を続ればよいと前向きになろう。

パターン3.勝つ権利を踏みにじられた怒り

これは比較的ベテランプレイヤーに多くみられるタイプのメンタル崩壊だ。

自分が格下だと認識している相手と戦う際に起きやすい。

オンライン麻雀でランクが下(だと思っている)卓で対局している際などによくみられる。

ベテランプレイヤーはそれまでに学習や努力を重ねて強くなったという自負を少なからず持っている。

その自負はやがて「自分の方が強いのだから、格下には勝って然るべきだ」という誤認を生む。

自分には勝つ権利があると認識してしまう。そして格下(だと認識している相手)に負けた際に、勝つ権利を奪われたと感じ、怒りを生みメンタル崩壊を引き起こす。

自分が格上だと認識している相手との対局時には生じない。

この場合の問題は「自分の方が強いと思っている」ことの方ではない。意外とこの認識自体は正しい場合もある。

問題なのは「強い人が勝つのが当たり前」という認識の方だ。

このように誤認してしまう原因は色々とある。

まず、麻雀を学習・上達することで、ゲームをコントロールする感覚が生まれやすいこと。

牌効率を勉強したり、押し引きを勉強したりすることはつまり、自分のプレイを自分でコントロールする練習をしていることでもある。

上達すると自分が思ったように選択できる範囲が広がり、コントロールしている感覚が生まれる。

しかし、それはあくまで自分の選択をコントロールしているだけで、ゲーム全体をコントロールしているわけではない。

どれだけ強い人でも配牌やツモ山はコントロールできないし、相手の選択もコントロールできない。

上達するにつれて、コントロール感が拡張され、有能感や自信過剰が進み、勝つのが当たり前だという認識になる。

他にもこの「強い人が勝つのが当たり前」という認識が生まれる理由がある。

それは、世の中の多くの勝負事・対戦が「強い人が勝つのが当たり前」構造になっていることだ。

各種スポーツや、囲碁・将棋、eスポーツ等いわゆる対戦形式になっているものは、多くの場合実力差は結果に反映される。

これらの対戦において、アマチュアがプロに勝つのは不可能で、多少実力差がある程度の戦いであってもその差が結果に反映されやすい。

もちろん数~数十の試合単位で結果が実力通りにならないこともあるが、実力差がある者同士で百戦やって結果が実力通りにならないという対戦ゲームは少ないだろう。

しかし麻雀においてはそれがあり得る。麻雀は「初心者でもプロに勝てることがある」「実力を測るには数千ゲーム必要になる」というゲームだ。

他の一般的な対戦ゲームと比較するとあり得ないレベルで運の要素を孕んでいる。

「強い人が勝つ」とは一般的な認識としてはむしろ正しく、麻雀プレイヤーもそういった認識に引っ張られてしまう。

このパターンに対しては、麻雀は少なくとも短期では「強い人が勝つ」というゲームではないという認識を持つことが大切になる。

どんな対局でも、強い人が持っているのはアドバンテージだけだ。勝ちが約束されているわけではない。

実力差があっても開始直後のトップ率は多くても30%超程度しかないことを再認識することが大切になる。

また、相手を格下だと言い切るには、相手の実力を見抜く力が必要だ。

例えばオンライン対局で同卓した相手が30戦で平均着順2.55だとして、その時点で自分よりも格下だと認識するのは決めつけだ。

そもそも格下扱いすること自体リスクがある行為だが、相手の実力を見抜くことにもまたスキルが必要だと認識すること。

また、一度格下だと認識した相手がそのままの実力であるわけではないと認識すること。

自分が努力して強くなっていったように、相手もまた強くなっているはずだ。

そして、自分がいつまでも強さを維持しているとも限らないということ。

自分が努力しない限り、実力を維持するのは難しい。

いつのまにか実力を抜かされていても全くおかしくないのだ。

パターン4.復讐の怒り

復讐といってもおどろおどろしいものではなく、うまくやり返したいという気持ちのことだ。

やられたらやり返したいというのは人間の性でもあるが、麻雀でその気持ちが強くなるとメンタル崩壊を招きかねない。

このパターンは特定の誰かにやられ続ける(負ける、放銃する、押し返されてあがられる、追っかけリーチされる、鳴かれるなど)と認識することでその相手に怒りが生じメンタル崩壊を招く。

多くの場合、初対局の相手ではなく何度も同卓している相手に生じる。また、卓外に要因(ライバルである、因縁がある、そもそも仲が悪い)があるケースも多い。

そういった相手にやられるとそれに対してやり返したいという復讐心が生まれる。その怒りに囚われてメンタル崩壊を招く。

怒りのせいで普段通りのパフォーマンスが出せない場合もあるし、意識的に自分が得する選択ではなく相手が損する選択を選ぼうとするケースもある。

対戦相手が複数人いる麻雀において、特定の誰かを陥れようとする選択は、多くの場合自分とその相手が損をして、他の人は得をするという選択になりやすい(例えば下家に対して絞るという行為は、自分のアガリと下家のアガリの可能性を下げ、他2人が得をする)。

そのため結果的に自分の勝利が遠のくプレイすることになる。

そもそも卓外の要因や人間関係に起因する場合もあるので対処は難しい場合が多い。

そもそもなぜ気に入らない相手が生まれるか。これは自分が相手から不当な扱いを受けたと感じるからだ。しかし、卓外での因縁がある場合はともかく、対局中に意図的に不当な扱いをされることなどほぼない。

大抵のプレイヤーは自分の方法で最善を目指して打っている。勝ったり精神的な充足感を得たくて打っているのであって、特定の誰かを貶すための手段として麻雀を用いているケースは少ない。

たまたま自分から見るとゲーム上の不都合が多く起きただけであって、そもそも相手には全く悪意などない場合が多い。単純に自分が気にしすぎているケースが多い。

それでも対局相手のことが気になる場合は、なぜ気になるのかを分析する。

いつも負けているように感じるのであれば、実際に直対の記録を取ってどのくらい負けているのかを確かめる。

めくりあいでいつも負けるのであれば過去通算何回めくりあいが起きて何勝何敗なのか記録を出す。

特定の動き(例えばツモ切りリーチを一発でツモ)が気になるのであれば、それは多くの場合その相手だけがする動きではない。

自分は相手が気に入らないのではなく、その動きが気に入らないのだ。それに対して冷静になる仕組みを別途取り入れるといい。

気に入らない相手を負かしたいと思うのはなぜか。

今までやられたことをやり返して見返したい。相手に自分には勝てないのだと知らしめたい。

この気持ちの根底には相手をコントロールしたいという欲求がある。

しかし相手をコントロールするのは不可能だ。

コントロールできるのは自分の選択だけで相手のことはコントロールしようがない。

それは相手も同じで、相手は自分をコントロールしているわけではない。

コントロールが可能な領域と不可能な領域を明確にすることが重要だ。

自分でコントロールできる範囲は自分の選択だけで、抽選結果と相手の選択は絶対にコントロールできない領域にある。

この怒りは比較的簡単に予測することができる。その相手と同卓した時点で今回は怒りが訪れるかもしれないと予測することで冷静さを保てることも多い。

恐怖という感情

ここまでは怒りという感情がメンタル崩壊を招く代表的なパターンを挙げた。

「アツ続行」「キレ打ち」という言葉があるように、麻雀でのメンタル崩壊というと「怒り」をイメージするかもしれない。

しかし、メンタル崩壊を招く感情は怒りだけではない。

もう一つメンタル崩壊を招きやすい感情に「恐怖」がある。

ところで、恐怖とは何だろうか?

恐怖とは不安が積み重なったものだ。

では、不安とは何か?

不安とは疑念が積み重なったものだ。

では、疑念はどこに生まれるか?

疑念は不確実性に対して生まれる。

ある不確実性に対し、疑念を抱く。疑念が積み重なると不安になる。不安が積み重なると恐怖となり、強い感情となって脳内に居座るようになる。

逆に言うと、確実なものに人間は恐怖を感じない。

恐怖の元となる不確実性の大半は対戦相手の手牌が公開されないことと、山が公開されないことに起因する。

もし手牌と山が公開されているのであれば、何も不確実性はなく、疑念も生まれないし、不安も恐怖も感じない。

では、不確実性が存在する麻雀で恐怖を取り払うにはどうすればいいか。

手牌読みや山読みをして不確実性を無くせばいいのか?そうではない。

いや、読みのスキル自体は重要だ。強者は読みを使って不確実性を少しずつ埋め、それがアドバンテージを生む。

しかし、読みができても不確実性を抹消するには至らない。よって読みができていても恐怖から逃れられるわけではない。

重要なのは麻雀というゲームにおいて確実性など絶対に誰にも手に入らないのにそれを渇望してしまう、その認識を正すことにある。

恐怖に対抗するには

恐怖に襲われた際の対応策は「自問自答」だ。

恐怖は不確実性と共に表れる。自分が対峙している不確実性について質問をしていく。

最初の質問は「考えられる最悪の結果が実際に起こったときに自分はどうなるのか?」だ。

短期的な例、例えば自分がリーチをかけたときだとするとこの質問に対する答えは何になるか。

「追っかけリーチに放銃する」だとする。

そこからまた質問をする。

「なぜそれが悪いことなのか?」「その結果で自分は何を失うのか?」「それに対する解決策は何か?」「自分はそのとき何をすればよいか?」というように、より掘り下げた質問を加えていく。

それぞれ答えるならば、「別にそれは悪いことではない。」「ポイントを失う。」「リーチを打った以上解決策はない。あるとすればもっと前の手組の段階にあるかもしれない。」「次局に備える」といったようになる。

このように質問と回答を繰り返すことで、最悪の結果が浮き彫りになる。

不確実性の輪郭が見えたおかげで、大抵この段階で恐怖は生産的な思考に変わる。

多くの場合は最悪の結果が起きても、本質的に失うものはないし、次に向けてどうするかを考える叩き台にすらなる。

これは長期的な決断に対する恐怖にも使える。

「雀荘での対局にチャレンジしてみたい」「強い人たちのコミュニティに入っていきたい」「牌譜を公開して他のプレイヤーから意見を募りたい」など。

人によっては恐怖が生まれる判断だろう。

いずれにせよ「考えられる最悪の結果が実際に起こったときに自分はどうなるのか?」から始まる自問自答を繰り返すことで恐怖を取り除くことができる。

一つ気を付ける点は、挙げた質問には必ず答えるようにすること。

質問に答えない限り、その質問はずっと解決しない不確実性として残り続けてしまう。

場合によっては回答に時間がかかるかもしれないが、時間をかけてでも自分の答えを探すことが大事になる。

少し長くなったが、恐怖に対する基礎知識を学んだので、ここからはまた実際に麻雀で起きがちな恐怖によるメンタル崩壊のパターンについて説明していく。

パターン5.失敗への恐怖

失敗するかもしれない恐怖に怯えてしまいメンタル崩壊を招くパターンだ。

ここでの失敗が意味しているのはプレイヤーによって異なる。

自分のパフォーマンスを出せないことが失敗なのかもしれないし、放銃することが失敗なのかもしれない。

ラスを取ることが失敗なのかもしれないし、長期的に良い成績を出せないことが失敗なのかもしれない。

いずれにせよ、そうなるかもしれないという不確実に疑念を持ち、それが不安になり、恐怖になる。

失敗するかもしれない恐怖は、前述した「その失敗をしたとして、自分はどうなるのか?」と質問をすることで薄れる。

また、失敗への恐怖は「失敗」への理解不足が引き起こしている場合もある。

「失敗」が怖いとき、大抵の場合は「成功」を望んでいる。

そして、「失敗」の対極に「成功」があるように感じている。

失敗することで、成功から遠のいてしまうのではないかと感じる。

実際は異なる。多くの人が思い描く成功は、失敗の逆ではなく、莫大な失敗の先に存在する。

むしろ失敗をすること自体がその先の成功に必要になる。

例えば「強いプレイヤーになること」を成功と見なすプレイヤーがいるとする。

この場合に「ラスを引くこと」「ひどいミスをすること」「放銃をすること」を失敗と定義してしまうと苦しくなる。

強いプレイヤーとは、ラスを引く失敗を回避し、ひどいミスという失敗も回避し、放銃するという失敗も回避した先にいるのだろうか?自分が経験しそうな失敗を回避し続けた先に存在するのか?確実に違う。

強いプレイヤーはむしろ、通常のプレイヤーよりも(絶対数として)ラスを引いているし、ひどいミスを何度も経験しているし、莫大な放銃経験を持っている。

この場合強いプレイヤーになるという成功を収めるのに大事なのはむしろ失敗を繰り返すことだ。強いプレイヤーは普通のプレイヤーよりも多くの「失敗」を何度も経験した先にいる。

登山で例えると、強いプレイヤーはすでに山道の上の方を登っている。

下からみると山道は幾重に枝分かれしており、分岐し、先が行き止まりになっている道がたくさんある。

どの道が上に続く正解の道なのかは分からない。

先を行く強いプレイヤーは、奇跡的に多くの道の分岐に成功して正しく上に続く道を辿れたから上の方にいるのだ思われがちだが、そうではない。

彼らは何度も分岐を間違え、行き止まりにぶつかり、迷って同じ道を歩いた経験すらある。

それでも今上の方を歩いているのは、単に彼が他の人より歩くのが速く、他の人が休んでいるときも休まず歩いているからだ。

爆速で多くの道を歩くことによって行き止まりを経験しながらも上に続く道を引き当てているのだ。

多くの人は分岐を間違えて、行き止まりにたどり着いた時点で登るのをあきらめたり、不正解の道を進みたくないがゆえにずっと分岐の前で考え込んだりしている。どの道が上に続いているのか分からない不確実性に恐怖する。

しかし強いプレイヤーはその間も爆速で歩いている。不正解の道を踏み抜いてまた分岐まで戻って違う道を歩き直している。

失敗を再定義するのは勇気がいる。

失敗に対する恐怖と対峙するのはとても難しい。根本的な恐怖はループする。つまり失敗に対する恐怖に打ち勝つための努力が失敗する恐怖も存在する。

しかし対抗するのであれば失敗とは誰にも気軽に訪れるものだと再定義して進むことが大切になる。

パターン6.自分のミスへの恐怖

これは、パターン2に挙げた「自分のミスへの怒り」の恐怖版だ。

恐怖は絶対にミスをしてはならないと感じている局面に起きやすい。

怒りと同様に麻雀の上達のメカニズムへの理解不足から生まれる。

対応策も自問自答や、パターン2と同じようなものになる。

パターン7.短期的な勝ちによる全能感

最後に、怒りや恐怖といったネガティブな感情ではなく、ポジティブな感情でミスを生むパターンを紹介する。

短期的に勝ち続けることで、まるで自分が最強になったかのような感覚になる。どうするのが一番良い選択かを考えずとも、自分が選んだ選択こそ最も良いと感じてしまうようになる。

こうした全能感もまたミスを生み出すもとになる。

問題点は、コントロール感が拡張されることにある。

勝ちが続くとあたかもゲームの全てをコントロールできているかのような錯覚に陥る。

前述したように、麻雀において本来自分がコントロールできる部分は自分の選択だけである。

たまたま相手の動きと抽選結果が噛み合ってよい結果が続いているだけだと認識しないといけない。

また、運や分散に対する理解も必要になる。この状態になると、なぜか自分だけは運や分散から逃れられる存在になったと信じこんでしまう。

短期的な勝ちが原因の全能感は予期しやすい。自分が連勝したり幸運に恵まれ続けたりして、有頂天になりそうなときに訪れる。

そういったときには一度冷静になるために、短期的な結果は実力を反映しないということを思い出そう。


ここまでで、メンタル崩壊とその感情の典型パターンを紹介した。これらのパターンはどれか一つだけ起こるものではなく、複数が同時多発的に起きることもある。

勿論あくまでも典型パターンであって、人によっては他のパターンや他の感情を抱いたりもするだろう。これが全てではないし、いずれのパターンも発生しない人もいるかもしれない。

ここまで読んでこう疑問が生まれた人がいるかもしれない。

「メンタルが崩れても打牌に影響させなければいいのでは?」

確かにこの疑問は最もだ。強いプレイヤーの中でもメンタルはそこまで成績に影響しないと考えている人もいる。

ここからはこの質問に答えるために、メンタル崩壊とミスの関係について説明していく。

なぜメンタル崩壊はミスを引き起こすのか

メンタル崩壊とミスの関係を考える際には、脳のメカニズムを考える必要がある。非常にざっくりというと、人間の脳は以下のような階層構造になっている。

ⅰ 生命維持・無意識 

心拍や呼吸などの生命維持活動や、無意識的活動に関する階層

ⅱ 感情

感情に関する階層

ⅲ 高度な機能

思考、認知、計画、感情コントロールなど、高度な機能に関する階層


注目してほしいのは、ⅰの階層に無意識的活動が含まれること。そしてⅲの階層に思考が含まれることだ。

そして重要なのは、人間の脳は強い感情を持つとⅲの機能が閉じていくということだ。

ここで「自分のミスへの怒り」パターンで紹介した、麻雀の学習プロセスをもう一度確認したい。麻雀の成長は、

①知らないからできない

②知っているけどできない

③知っていることを意識すればできる

④意識せずともできる

という順に進む。ここでは③と④に注目する。

③は意識すればできるというフェーズだ。よって脳の階層ではⅲに当たる。④は意識せずにできるというフェーズだ。よって脳の階層ではⅰに当たる。

人間は強い感情を持つとⅲの機能が閉じる。これは脳の仕組みなので避けられない。

そうすると、麻雀でいう「③知っていることを意識すればできる」能力が落ちることになる。一方で「④意識せずにできる」能力は影響を受けない。

具体的な例を挙げる。

2人のプレイヤーAとBを想定する。

Aは麻雀のルールを知っていて対局経験もそれなりにあるが、戦術については何も知らない。最近戦術の勉強を始めて、リーチ判断を勉強しているところだ。

Bはベテランで強いプレイヤーだ。オンライン麻雀でも上位のクラスにいるような人だ。基本戦術はマスターしている。

この二人は今強い恐怖を感じている状態だとする。傍から見て分かるレベルでメンタルが崩壊している。

そこで以下の牌姿の状況になったとする。

東一局、ドラ西、六巡目

23499m34r5678p78s東

ピンフ赤1の聴牌だ。

この手、Aは恐怖でリーチできないかもしれない。

しかし、Bはリーチできる。

Aにとって、ピンフドラ1のリーチ判断は習得中で、意識的に判断する必要がある③のフェーズにある能力だからだ。

「この手はピンフ赤1だ、リーチした方がいいと最近勉強したなー」と意識してリーチ判断をする必要がある。

もし彼が平常心であれば上記の思考を意識出来てリーチを選べただろう。

一方でBにとってピンフドラ1のリーチは④のフェーズにまで昇華されている。

もはや手を見た瞬間いつのまにか牌が横に曲がっている。

恐怖という感情であってもその判断は影響を受けない。

また、Aであっても東を切るという選択自体は間違えない。

強い恐怖を抱えていても、ここから3mを切ることはない。

彼にとって先制ピンフ赤1でテンパイを取るというスキルは④まで昇華されているからだ。

このように、メンタルが影響する能力は自分の成長が③にあるスキルのときに影響する。

外から見て同じような強さのプレイヤーでも、そのスキルの構成内容として③が多いのであれば、メンタルの影響を受けやすいといえる。

④が多いのであればメンタルの影響は受けにくいといえる。

また、成績に影響しやすいスキルが③の段階に多いのであれば、メンタルが成績に影響しやすいといえる。


参考図書

ザ メンタル ゲーム ──ポーカーで必要なアクション、思考、感情を認識するためのスキル (カジノブックシリーズ) (日本語)




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