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血のつながらない子どもを愛せるか? ③

北陸にある父の生家とは今でも交流があるが、わたしにとっての祖父母といえば、島根の2組だった。

でも、話はもう少し複雑。
わたしの父方の祖母は、父の育ての親ではない。
どういうことかというと、父が高校生のときに育てのお母さんは亡くなられたそうで、その後再婚したのが祖母だからだ。

父方の祖父母の家は島(といっても橋でつながっている)にあり、身内の面倒見はいいがヨソ者は邪険にするという、連帯感の強い土地だ。
そんな地域だから祖母は周りから「後妻さん」呼ばれていた。いい意味も悪い意味も、たいして意味がないこともあっただろうと思う。

父が大きくなってから祖母との生活が始まったのだし、大学進学で家を出た父だから、祖母からすると育てたという感覚は少ないだろう。
さらには祖母には連れ子の男の子が1人いて、わたし(と兄)と年が近い子どもが2人いた。
つまり血のつながった孫がいたわけだ。

それなのに、孫差別というのは1度も感じたことがなかった。
それどころか、近くに住むようになってから頻繁に顔を出すようになったわたしたちを可愛がってくれていたようにさえ感じている。

祖父が亡くなってから、祖母は一時期お金に苦労していた。(実の息子がね、ギャンブルにはまってサラ金に借金つくって、金を無心し続けてたのよ……。祖父が残してくれたお金がすっからかんになっても借金はなくならなくて、父が解決のために奔走した)
それが原因で実の息子と孫とは疎遠になってしまい寂しそうな様子もあったが、わたしたちへの接し方は変わることはなかった。わたしたちに必要以上のものを背負わせることもなく、今まで通りだった。

わたしが大学入学の際には、お金をやりくりして入学祝いを準備してくれた。
祝儀袋の中にはお祝い金と「入学おめでとう! 少なくてゴメンね」という手紙が入っていて、祖母の苦労を思うと涙がこみ上げてきた。
きっと、自分が食べたいもの、買いたいものを我慢して準備してくれたお金なんだろうと思う。
「モノに思い出はない」と思っていてポンポン断捨離できるわたしだけど、その手紙は今も大切に保管している。

「おばあちゃんに、なにかできることないかな?」と聞くわたしに、母は「トモの声を聞かせるのが一番の恩返しだから、大学に行っても定期的に電話してあげて」とアドバイスをくれた。
その言葉通り、祖母はわたしからの電話をとても喜んでくれていた。

祖母はもう亡くなってしまったけど、わたしが養子を迎えたと聞いたらなんて言うだろう、とふと考えることがある。
あなたのおかげで、血のつながりがなくても共に過ごす時間が強いきずなをつくってくれるとわかったよ、と伝えたい。

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