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あのころから色と音の世界

こんばんは、mizu です。

夜に書きたくなるこのnote。
静かな、ただ穏やかな
ふんわりと暖かく見守ってくれる間接照明と
じわっと心を癒すロックなウィスキーの中で
キーボードをタッチしてる。

部屋全体に流れるmusicはアップテンポで
心とはちょっと合っていないんだけれど
それがまた丁度良く心地良い。

今、窓の外から流れてくる風の便りも気持ち良くて
今日も良い1日だったと振り返る。

さて、今夜は不思議体験にあふれてた幼少期から
大人になるまで書こうと思う。

(お化けの話とか出てくるのでやんわりに書いてますが、苦手な方は読まないでね。)

前回でも話した通り、私は幼少期から人じゃない何かとも会話していた。

心の中だけでの話なのか、声に出していたのか…多分声に出てる。
響きで伝わってくる声(音)だから、きっとちゃんとした会話になっていないと思うんだけれど、
“繋がっている感じ”はしていた。

そして、人間と会話しているよりも人間ではない何かと話している方が楽しかったのを今でも覚えてる。

きっとこの時から、私は人見知りというヒトが苦手になっていたんだろうね。笑

「あのお友達と遊んできなさい。」という母の言葉とこっちを見守ってて伝わってくる心配の気持ち。
ただきゅーっと苦しくなるから、楽しんでる風、仲良くしてくる風を装う小学生の私。
今となっては、そんなこともあったな。という気持ちだけ。
何の感情もなくただそこに残ってる。
きっとこれらも無機質に残っていくもの。

そんな日常の中、
女の子だったらきっと大好きな
“おままごと”と”リカちゃん人形”が本当に苦手で、
近所に住む男の子と
秘密基地を作ったり、
戦隊ごっこをしていることが大好きだった。
毎日泥だらけ、屋根や塀に上って怒られる夕方。

このあたりからきっと
ジェンダーレスは始まってる。

キティちゃんとかキキララに興味が無くて、
文房具もとにかく男の子の持つものが欲しかった。

このあたりから、自然の何かの声だけでなく
いわゆる“おばけちゃん”というものを身近に感じるようになっていた。

テレビの世界だけの話なんだと思っていた
いわゆる火の玉というものを見たり、
居ないはずの何かが身の周りでいたずらする毎日。
(簡単に言うと引き戸がパタンと勝手に閉まったりとかは日常茶飯事)

小学生の頃から、このいたずらが当たり前で、
そのうち驚かなくなっていた。
見えないはずのヒトが分かるようになっていたこと。

そんな幼少期から20代になり、感じる力は加速した。

顔は知っているけれど話したことのない社内の先輩、見ず知らずの通りすがりのおじいちゃん、仕事でお世話になったある企業の社長さん。
この3人に同じことを言われた。
「見えてるよね。憑かれやすいから、気を付けなさい。」と。

突然話しかけられて言われて言葉はそれで、
驚いたことを今でも鮮明に覚えてる。

でも実際に、
「あ、何か入っちゃったな…」という感覚はあった。
20代の時が一番感じるピークだったのかな。
その時通る道、行った場所。
何かあちらから伝えたい時があるとき、毎回お線香の香りが漂ってくるようになった。

その香りが私の体内に入ってくる合図。

その地で何があって、その人(動物)はどんな人でどんな思いなのかが分かる出来事。

でも私には何もしてあげられないから、ごめんなさい。と伝えるけれど、たまに「これはヤバいかも…」という時は、身に着けているお守りの数珠がパーンッと弾け飛ぶことも数度。

でも、みんな何かしらメッセージを残したくて頼ってきてると思うと
今ここに生きている人と何も変わらないじゃないと思うようになった。

見えるもの
見えないもの

見えないものを感じるのは、正直怖い。
(感覚ですぐ分かるけれど、心霊のTV番組は怖すぎて見れない私。)

でもね、そこにもちゃんと色と温度が存在してる。
見えないけれどその時の体温(感情温度?)が伝わってくる。
自然の声も一緒。
そのひと時の香りと温度と色がちゃんと存在してる。

みんなと一緒なんだと
思ったんだ。

こんなことを10代、20代経験していれば
不思議な世界があるということも受け入れてしまうんだよね。

でもそう思われたくないから否定して隠してきた過去。
もうそんなこともどうでもいいや。と思えたから
ここに書きました。

これで自分の気持ちを思う存分
ここで表現できると思うと
ただただ嬉しくなる。

自分のための
自分にあてるnote。

いま自分がどうしたいのか
どう生きたいのか
明日、私は誰のために生きるのか
ちゃんと自分を見つめる機会。
自分の音と色に耳を傾けよう。

明日、自分を大事に生きようね。

mizu









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