見出し画像

ひとつぶの種

ぼくは眠っていた。
眠っていることにも気づかないまま眠っていた。
自分が生きているかどうかも忘れて眠っていた。

いつしか、熱と願いのようなものが……
それは上から下から四方から……
外から、いや内からも……
しみとおってきて、ぼくを、深い眠りの底から、まどろみへと浮かび上がらせたのだ。

まどろみのなか、ぼくは思った。
「生まれてもいいかなぁ。生まれてみようかなぁ」

そして、日に日にそわそわとしてきて、ついには思った。
「生まれたい!」と。

まどろみのなか、もっと眠っていたい、眠っていようとも、思わなかったわけではない。
けれども、ぼくは目覚めた。
下方の光へ手を伸ばし、根をはった。
上方の光へも手を伸ばし、芽を吹いた。

正直、途中、くじけそうになった。
それで、どこか、すこし腹も立てていた。
そして、愚痴めいて嘆いた。
「なんて重いんだ。こんなに重かっただろうか。固いところへは降り立てないというのに、これはなんだ」と。
(それにしても、いつの記憶なのだろう、ぼくの記憶なのだろうか。)

ぼくの、ひとりごちすぎる独り言にも、応えてくれたのは土だった。
ぼくを温め、育む土。
土は言った。
「重さと固さが、わたしなの。それでも、まさか、これほどまでになるとは思わなかった。だから、あなたも生きづらい。あなたにも試煉だったね。わたしだけでは耕せない。渦が必要なのに。あなたもどうか手を貸して」
「うん。でも、どうやって?」
「ただ、手を伸ばせばいいのよ。たのしくね。好きなように、思い思いに。でも、伸ばしすぎてはいけないよ、奪うことにもなるからね。そうなると、たのしくない」

ぼくは、土から言われたとおり……
いや、もう自らの自然の思いからも……
四方八方、全方向へ手を伸ばした。
たのしいほうへ、ふれあうほうへ、つながるほうへ、手のなる方へ。

そのころからは、土の重さや固さは、なおも感じてはいたけれど、苦にはならなかった。
ぼくが手を伸ばすことで、はからずも土は耕され、おかげでぼくは、さらに手を伸ばしやすくなっていたのだ。

ぼくは、ぼくの思うように生きるだけだったけれど、だからなのか、とてもたのしかった。
土も、よろこんでくれた、そのことがまた、僕のよろこびでもあった。
ぼくと土のあいだには、なにかが、めぐりはじめていた。
ぼくらは、ぼくらの渦中にあった。

ぼくの手は、光とともに、水も集めた。
雨は、上からも下からも、とうとうと、降りそそぐ。
だから天は、上にも下にもあるのだ。
頂とは底であり、底とは頂なのだ。

土は、いつでもぼくを励まし、ほめてくれた。
「そうだよ、それでいいんだよ。大丈夫、うまくいくよ。ぜんぶ受けとめるよ。ありがとう、わたしはあなた、あなたはわたし」

そう、根という手を伸ばし、土の心根を、本音を、知れば知るほど、もはや、ぼくは土でもあった。
土の方でもそうであるのは、手をとおして伝わってきていた。
それに、ぼくは、すでに、ぼくでもなかった。

ぼくは、そのときには、無数のぼくであり、ぼくでありながら、ぼくではなかった。
ぼくの無数の手が、それぞれに、感じ、考えていた。
心を持っていた。
そして、その心はつながり合っていた。

「手は照よね。そして、手当ては手果て。果てにも、わたしが懐いているよ」
変わりつづけるぼくを懐きながら、同時にすこしずつほぐれ、ほどかれ、ほがらかになった土は笑った。
思えば、土も、まるごと手であったわけだ。

「あぁ、そうか、生まれた場所へ還るんだ」
と思えたら、懐かしさと無数の記憶とが、ぼくのなかに流れ、あふれた。
記憶が、過去のものではなくなったからなのだろう。
ぼくは、ふたたびみたび、いや、何度めかしれない眠りについた。



ひとつぶの種は、根と芽と葉という無数の手を伸ばし、ひとにぎりの土を耕し、無数の記憶とともに、ひとにぎりの土へ還りました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?