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あるほどの花

あるほどの花で埋め尽くされた棺のなか。彼女は、彼の描いたあの美しい絵のごとくに眠っていた。ただ、絵のなかの、あえかにあえぐようだった表情とはことなり、彼女の死の聖顔は、目も口も軽く閉じられ、安らかな微笑みを浮かべていた。

その微笑みは私を慰めた。それだけが救いのように思えた。私は妹を葬送った。彼女の夫である、画家の義弟を葬送して半年のことだった。

妹のリルと、親友で画家、後に義弟となったグレイを引き合わせたのは私だった。リルとグレイの物語を書き記す。



グレイはひどく内気な男だった。いつも所在なさげにおどおどとして、不器用だった。人と目を合わせて会話をしているところを見たことが、まるでなかった。

しかし彼の眼は、世界を細部まで映していた。細部も細部、そして深淵まで彼はみていた。

言葉少なで、話すにも朴訥だった。容姿は人並みなのに、よそおいに気を配るということを、まるで知らないふうだった。彼は片足を引きずっていた。幼い時分に罹患した熱病の後遺症とのことだった。彼のこの不具が、彼を内気にさせたのだろうか。私はそうではないと思う。一つの契機ではあっただろうが、彼の極端な内気さは、彼の本来の類い稀な繊細さと、細やかすぎる感性によるものだった、と思う。それは彼の絵を観れば、一目瞭然だった。

彼は好んでよく植物を描いていた。彼の描く絵は、精密な植物の写生を超えて、植物の本性が耀き出ずるような、生命が立ちのぼるような、なにかを語りかけてくるような “光” を放っていた。

私が彼に初めて惹かれたのは、彼の『蔓』という小品を観たときだった。クレマチスの、花ではなく、蔓にフォーカスして描かれた絵だ。モチーフに花を選ばないところなど、そのときには彼をさほど知ることもなかったのに、彼らしいと思えた。けれども実際、彼は花よりも蔓に驚嘆していたのだ。その不可思議な渦まきに。そして、その渦まきの神秘に、額づくようにして描いた。観るものをも、その渦のなかに引きこむ筆力だった。

『蔓』に描かれたのは蔓だけではなかった。画面いっぱい多種多様な瑞々しい緑があふれていた。一見には、一面に緑色の、地味な絵ではあるのだが、私には衝撃だった。彼のみている光、彼の見出だした光に、私は目をみはり、胸を打たれた。クレマチスの実物を見るより、彼によって切り取られた画面にこそ、凝縮された本性をみた、というのだろうか。画面のなかに、植物の精霊たちが動いてみえるようにさえ思った。いや、精霊たちが彼の絵のなかに棲まったのかもしれない。

『蔓』は惹かれる秀作だった。しかし、彼の初期の作品のなかで、さらに印象深いのは『ユニコーン』という作品である。暗い木立のなかに佇む、茫と発光するかのような一頭の白いユニコーンの絵。樹木の葉の一葉一葉も、ユニコーンのたてがみも、そよいで揺れているようにみえた。静けさを観じるのに、その静けさの音が聴こえてくるような、音がみえるような気さえした。ユニコーンの佇まいと眼の光からは、なにか、あまりの孤独が伝わってきて、胸をしめつけられるような痛みも感じた。夢でみた光景だと彼は語ったけれど、ユニコーンは、おそらくは、彼の化身だったのだろう。痛みが生きて、光、だった。

私はそれまで、画面のなかに光を閉じこめるように、結晶させるのが絵なのだと思っていた。もちろん作品は、一つの結晶、一つの美しいもの、ではある。しかしそれ以上に、彼の絵は光を放ち、生き始めるものだった。美が、ありありと実在していた。その気づきは、私の詩作の原点にも据えた。

「美を見顕す。美に仕える。美は生命を賦活する」

私たちは共に唱えた。私たちの合言葉のような言葉だった。いや、いまでも私には十字架のような言葉でもある。



私は詩を詠う者であり、彼は絵を描く者だった。私たちは早くから才を認められ、若い芸術家の集うアカデミーに通っていた。才気にあふれ、野心にもあふれた若者が揃っていた。家庭もそれなりに裕福な者たちばかりで、苦労知らずではあった。その分、みな楽天家で、芸術を謳歌するように愛していた。教養が深く、切磋琢磨し合える仲間だった。講師陣にも熱気があった。

そのなかに、彼は、埋もれるように気圧されるように、いつも隅の方にいた。アカデミーにいる誰もが彼の才を認めてはいた。しかし、なにせ世に広く認められるには、彼自身にも、彼の絵にも、なにかが足りなかった。彼の眼は内へ内へと向かうばかりだったから。

そこに、その内気な彼に、新しい息吹を吹きこんだのが、我が妹のリルだった。

リルは生まれつき病弱で、やはり幼い時分に患った熱病の後遺症で、背の半身に赤い痣があった。その痣が時折、刺すように痛み出し、寝込んでしまう日も少なくなかった。とはいえ、健やかなときのリルは柔和で、感性も知性も研ぎ澄まされており、聡明で美しい自慢の妹だった。

特筆すべきところとして、リルは “みどりのゆび” を持っていた。私たち兄妹がそう名づけて呼んでいた。彼女は花を育てるのが驚くほど上手かったのだ。彼女の手にかかると、咲き誇る花はより生き生きとし、枯れかけた花は息を吹きかえすようによみがえった。その様は傍らで見ていても、不可思議で仕方なかった。まるで魔法だった。おかげで我が家の庭は、四季折々、花、花、花であふれていた。年中、花の色と香りに満ちていた。

リルに訊ねたことがある。どうしたら “みどりのゆび” を持てるのか、と。リルは言った。

「聴くの。だって、聴けば聴こえるし、訊けば応えてくれる。聴きたいの、聴いていたいの。ただ、それだけ」「どういうふうに聴こえるの?」「ひとの声とはちがうわ。でも伝わるのなら、それは声でしょう?」「リルの花を愛でる気もちが伝わってくるよ。そういうことかな」「ええ、きっと。わたしは花の咲みが好きなの。花の咲みは、世界を嗤わない。天を仰ぐ花も、地へ俯く花も、己をひらき、世を祝福し、微笑んでいるでしょう」「そうだね、花は咲むこと、そのことが在る、ということのようだ。不可思議にも、私が悲しいときも嬉しいときも寄り添ってくれる。花の色や香りに自分の思いを託すこともできる」「ああ、ロビン、そうなの。すてきなお兄さま。それにね、季節が花を咲かせるというより、花が季節をめぐらせるのよ。ただ咲くことで、在ることで。それが花なのよね」

上気した頬、嬉々として話すリルの、歌うように話す様子が、いまでも眼に浮かぶ。

また、リルも芸術への親しみが深く、詩を詠み、絵を描いた。そしてリルも、架空の生きものであるユニコーンをいくつも描き、そのうちの数点をお気に入りにしていた。そのうちの一つは、たくさんの虹が立つようにゆるやかな弧を描くなかに、白いユニコーンが駆けているものだった。画面構成や筆さばきは幼く拙いものではあったが、観る者を惹きつけるなにかがあった。

リルの『ユニコーン』は、リル本来のうららかな気質と人柄のにじんだ、やわらかな線と明るい色調の絵だった。グレイの『ユニコーン』とは、まるで対照的、とも言っていい。しかし、私はグレイとリルの『ユニコーン』に類似を観じた。ユニコーンというモチーフだけではない。美への憧憬と郷愁というのだろうか……慰めでありながら恋焦がれ、胸を掻き立てられながらしめつけられるような思い……が、両者の『ユニコーン』に共通して、根底にあるように思えた。

私は直観していた。グレイとリルを引き合わせよう、彼らは必ず惹かれ合う、と。



私の直観と思惑のとおり、いや、思惑以上に、グレイとリルは、たちまちに恋に落ちた。内気なグレイを、温和なリルが扶けた。互いの半身の不具は労り合った。傷を舐め合うのではなく、負うものがある者同士、心を寄せ合った。そして、美について、生命について、愛について、熱く語り合っていた。

「本質についての対話を重ねられる存在をずっと探していた。あまりに二人で一つの存在であり、互いを知るまで互いにどうして生きてきたのかと思うほどだ」と、互いの口から各々に私は聴いた。

恋する二人には “かなわない” と感じた。しかし、惚気とは思わなかった。 “真実” だったからだ。彼らは彼ら自身の話したとおり、分かちがたく一つで、内から外から、輝けるようだった。彼らは彼らの本来、本質と真実を生き始めたのだ、と私は観じた。

リルはグレイのミューズとなった。グレイのアトリエは、いつでもリルの庭から届けられるリルの花々で彩られた。グレイは言った。

「リルとリルの花からのインスピレーションとインパルスは、尽きることがない。無尽蔵の光をみるようだ。世界が色づいた。世界はこんなにも美しかったのかと思うよ」

「ロビン、僕は初めて識った。みたんだよ。植物たちがこんなにも美しいのは、深く根をはり、直に地の血を吸いあげるからなんだ。深奥の真の記憶、愛が分かたれ、分けられ、放たれる。人は植物たちを愛でいとおしみ、呼吸する。讃えずにはいられず、感謝なしにはいられない」

「リルから教えられたんだ。いや、彼女の言葉というより、彼女の在り方から。彼女は紛うことなく僕のミューズだ」

グレイの描くリルとリルの花々の絵はどれも、明るく華やかなものだった。恋する二人の思い、グレイの心の変化が、いやが上にも伝わってきた。彼らのいちばん身近にいた者としては、気恥ずかしいような思いも感じないではなかったけれど、やはり喜ばしかった。彼らの真実、歓喜と喜悦のときに、私は立ち合っていたのだから。

グレイの元来の繊細なタッチは、より磨きがかかり洗練された。愛は、彼の眼を、さらに微細にひらかせたようだった。さらなる “光” を観じさせる作品がふえていった。それらの作品群は、画壇でも大きな反響と評価を得、グレイはたちまちに人気の画家になった。同時にリルの美しさへの憧憬と賞賛も口々にのぼった。彼らはしあわせそのものだった。私も彼らを誇らしく思い、喜びに満ちた。

まもなくグレイとリルは結婚した。誰もが納得し、祝福する結婚だった。



しあわせの絶頂、とは、そのときの彼らのための言葉だろう。愛する者から愛される歓び。分かち合い分かり合う喜び。この上ない愛のきわみ。

グレイとリルは、我が家の邸を新居とした。リルはいっそう庭仕事に励み、グレイの創作意欲も、いやましに増したようだった。街の一部屋の小さなアトリエにいるときより、彼は血色も肌艶もよく、眼は耀き、のびのびと精力的に描いた。リルの庭は、いつでもどこでも草木花の声がそよぐようだったから、描くモチーフには事欠かなかったのだろう。リルとリルの花々を描くことには変わりないのに、グレイの絵にマンネリはなかった。恋に落ち、愛に生きる高揚は、彼の絵にすべて生かされた。彼は己の創造と仕事に誠実だった。妥協はなく、真剣で熱心な、まさに画家、だったのだ。

彼らが結婚して数年の、クリスマスが近づくころだった。リルは雪も寒さも日の短さも、ものともせず、庭中を世話するために、行ったり来たり駆けていた。軽やかに喜びに満ちたその姿は、まるで冬の蝶のようだった。冬の雪のさなかにも、リルの庭は豊かだった。リルの庭は、リルの心のありようが顕れているようだった。みどりのゆびを持つ妹は、私たちに、花々の様子をいかにも愉しく語らった。

「わたし、俯いて咲く花に惹かれるの。空の太陽を背に受けて、大地の深みをまなざし続ける花。過去を懐かしむだけではなくて、きっと未来へもひらいているはずなの」

「大地にはキリストがいるからね」グレイは深く頷きながら言った。「過去であり未来でもある存在が。天へ向かうにも大切なのは土なんだ」

「キリスト……降下した神、か……」私はふと呟いた。私はグレイの言葉から、敬虔な思いに更けた。そんな私の様子にはかまわず、リルは続けた。

「ナルキッソスはね、手を広げるように葉をひらいて、光!光!と喜んでいたわ。自惚れやさんの花というけれど、かわいらしいの。自分に見惚れるくらいやはり美しいのよね。そしていま、クリスマスローズは空気を浄め、スノードロップは大地を祝福しているわ。控えめに、そっと。それが花の本性なの。その佇まいのきらきらしい静けさ。いたわしく、いとおしいわ。みなクリスマスを待つようなのよ」

リルが話すと、リルのみている情景がありありとみえるようだった。それはグレイも同様であるようだった。いや、私以上に、遥かに、グレイは観じていたのだろう。

グレイは描いた。突如、猛烈に描き始めた。リルのいとおしむ冬の白い花々をモチーフにした、渾身の作だった。なにかが彼を強く烈しく突き動かしたのだ。衝動に理由はない。

描き始めたのはクリスマスで、仕上がったのは春の花の盛りをすぎたころだった。グレイは春の晴れやかな花々にも目をくれず、ひたむきに、一心に、製作に勤しんでいた。どこか神がかりの、常人ではない仕事ぶりだった。

完成したその絵『白い花』は、リルが、ナルキッソスとスノードロップの咲く雪の庭に寝そべり、クリスマスローズへ……あるいは雪の華へか……手を伸ばす姿だった。白く白いしんとした静けさが描かれていた。絵のなかのリルは凍える雪のなかでも、恍惚として上気して、天使をみているか、天上にいるかのような表情だった。白雪と白い花々、リルの透きとおる肌の白さ、身につけているドレスの白さ、どれも “白” の色であるのに、グレイは見事に、それらの数多の白色を描き分けていた。そして、花びらの揺らぎや、ドレスのレースの襞までを微細に描き、それらは各々が光を放ち、発光するかのようだった。白以外の目立つ色彩は雪のなかでも主張する葉の、緑色くらいだった。自他共に、いや誰もがみとめるであろう、静謐で幻想的な傑作だった。身震いするほどの透徹した美しさが、そこにはあった。

一見で、ただならぬ絵であると感じ、絵のなかに没頭すると、しばし息をのみ立ち尽くすよりない作品、というものが稀にある。画家が、その画家人生で一生に一度描けるかどうか、というようなもの。まさに『白い花』はそういう作品だった。

身震いしたのは私だけではなかった。モデルになったリル、そして画家自身も、画布の前で愕然としていた。画面から、リルの吐息さえ聴こえてきそうな、花の揺らぎさえ見えそうな、あまりに生きた作品だった。しかし、私たちの誰もが、心が、高揚しつつも鎮まり、やがて沈みこむのを感じていた。予感があった。描かれたのは “死” ではないか、と。

私には、グレイの初期の作品『ユニコーン』の孤高な美しさも思い出された。なにか、なにかが、どうしようもなく不安で、心の奥が揺さぶられるように、掻き立てられた。重く沈みつつある心が必死で抗うようだった。

しかして、不穏な予感は的中した。

グレイは描き上げたその日から、一日中、自身の描いた『白い花』の前に座り、ただひたすらに見つめつづけるようになった。絵筆を入れて直すようなこともなかった。絵は完璧なまでに完成していたのだ。

グレイは精魂尽き果てた体で、一人で居たがった。初めは、描き上げた後の充実の放心なのだろうと、私たちは信じこもうとした。あるいは、燃え尽きたのだとしても、一時のことであろうと。しかし、まもなく、私たちの望みは砕かれた。グレイは意味不明な独り言をぶつぶつと繰り返すようになり、突然に嗚咽するようにもなった。食事を摂らず、ベッドで眠ることもなくなった。『白い花』の前で寝起きしては眺め入り、涙した。涙で見えなくなりそうなものなのに、泣きながら見つめつづけた。いつしか飲めないはずの酒をあおるようになり、アトリエには空き瓶がごろごろと転がった。

私は焦り、気を揉んだ。グレイはもはや廃人も同然だった。土気色の顔、落ちくぼんだ眼窩に腫れたまぶた。その眼には光はなく、髪と髭は伸び放題、汗と酒が臭いさえしていた。彼は瞬く間に転落したのだった。私にはなすすべがなかった。彼は、私がなにを言っても上の空だった。まるで聞こえていないかのようだった。それに、彼の眼は、私を映していなかった。彼の眼には『白い花』しか見えていなかった。彼の眼に映されない私は、自分自身がここにいないようにさえ感じた。彼の眼の光によって在らしめられるものが、確かにあったのだ。私は私の一部を失ったのだった。

そばにいてもなにもできないのに、そばにいることしかできなかった。突然に涙し始めたグレイを長いこと背をさすって宥め、眠りに落ちるまで見届ける……そんな夜が幾晩もあった。彼に対して私ができることといえば、そのくらいだったのだ。私は途方にくれた。画家はどうなってしまったのか、これからどうなるのか、まったく見当もつかなかった。

リルの心配と焦燥は、私の比ではなかった。リルはやつれて顔面蒼白で、いまにも倒れそうだった。けれども、持病の不調さえもおして、かいがいしくグレイの身の回りを世話した。それなのにグレイは、リルをどこか疎み、遠ざけた。それはリルへの慮りだけからではないことに、リルも私も、徐々に薄々と気づかされた。半ば恐がるように、明らかにリルを拒んだときには、リル自身も私も、わけがわからず呆然とした。あれほどまでに愛し合い、いとおしみ、慈しんでいた存在を、どうしてこれほどまでに遠ざけるのか。

リルは、グレイの前では気丈にしていたけれど、私の前では堪えきれずに号泣した。泣き腫らした眼から、とめどなく涙が流れた。慰めようのないあわれみを感じた。グレイに対しては怒りすら湧いた。私は、リルに対しても、眠りに落ちて泣きやむまで背をさすってやるだけだった。他になにができただろう。未だに、こたえもないのに、自問しつづけ、悔やんでいることでもある。

リルはある晩、疲れ果て、涙も涸れて呟いた。

「彼を心から信頼していたの。それは自明のことで疑いもなく、当然の喜びだった。なのにいま、彼を信じることは、悲壮な決意なくして、できない。わたし、つらい。自分さえ疑わしい」

「誰のこともせめずに、ゆるそう。グレイのことも、リル、君自身のことも。信じて待とう」そう言ったものの、私は憔悴する妹を慰める術も言葉も、持ち合わせていなかった。

『白い花』完成から2ヶ月と経っていなかった。或る早朝……朝の早い季節だった……アトリエの『白い花』の前で、グレイはぐったりして倒れていた。近くに吐瀉物があった。駆け寄って呼んでも応えはなかった。呼吸もなかった。体も重く、冷たかった。すぐに医者を呼んだが、遅かった。

グレイは死んだ。

医者いわく、アルコール中毒だろうとのことだった。2ヶ月、たった2ヶ月の間に、グレイは自ら死へ向かったと言っても過言ではない。その2ヶ月間は、それほどの壮絶だったと言える。

斃れたグレイを発見し医者が着くまでの間、私は不可思議な光景を見た。家の者が皆、慌てふためいているのに、いちばん取り乱していそうなリルが、息のないグレイを胸に抱き、彼の頬や髪をやさしく撫でながら、彼の身を揺らしながら、なにやら言葉をかけていた。二人だけの言葉だ、私には知る由もない。リルは穏やかに微笑んでいた。その微笑みは慈しみに満ち、悲しみを宿すのに晴れやかだった。まるで天使か聖母のようだった。それまでの2ヶ月間、気難しい表情ばかりを見せていたグレイも、安らかに最愛の妻へ身を預けているように見えた。私は、きわめて深刻な事態であるのを承知しつつ、なぜかどこかで安堵していた。二人の周りだけ、時が止まっているかのようにみえた。蜜月のときだった。神々しく近寄りがたいとも感じた。私に気づいたリルは言った。

「この人は逝ったわ。ようやく触れることができた。わたし、愛されたの。これほどまでにないくらい、愛されたの」そして一条涙を流した。まさに、これほどまでにない美しい涙だった。



グレイの葬儀、埋葬は、滞りなく、厳かに済んだ。未亡人となったリルは、深く悲しみつつも凛として、気高く己を律していた。取り乱すことなく穏やかだった。堪えているというふうではなく、グレイの死をひしと受けとめていた。私は妹にこのような強さがあることに、少し愕いてもいた。ずっと病弱で、庇護してやらねばならないと思ってきた妹だったが、彼女はか弱くとも、脆くはなかった。愛、というものの体現、その実在を、目の当たりにした気がした。彼女は愛そのものであり、愛を生きていた。

短い夏が過ぎ、長い秋の間、リルはグレイの墓前に毎日のように通い、頭を垂れ、手を合わせた。グレイを恋しがり、死を悼みつつも、どこか日課のように淡々としていた。そして以前と変わらず庭を手入れし、草木花と戯れ、朗らかな笑顔さえ見せた。私には不可思議だった。私はまだグレイを亡くした喪失感と無力さにとらわれていたから。リルへの気遣いもあったけれど、私の心情として、私からグレイのことを話すのは憚られて、ためらうはかりだった。けれどもリルは、グレイのことをよく話した。

「庭にいるとね、花だけでなく、グレイの声も聞こえてくるようなの。彼もわたしの庭の手助けをしてくれているのよ。見て、ロビン。今年の庭は一段と美しいとは思わない?」確かに、確かに美しかった。落日と照応するような、落葉の燃えるような緋色、荘厳の金色色。その一葉一葉の、輝ける飛跡。奇跡のような美しさだった。彼ならこの奇跡を、どう描いただろうか。いや、この光景こそが彼の描いた作品なのだろうか。

「わたし、愛されたの。愛されているの。こんなに悲しいのに、しあわせ。こんなことがあるなんてね。こんな思いを識るなんて思わなかった。心は、痛みながらも、安らぐの」リルの眼は潤んでいた。「初めはわからなかった。『白い花』のなかのわたしに、わたし、ずっと嫉妬していたわ。グレイはね、わたしの死が怖くて怖くて、死んだのよ。わたしの死を見つめつづけて、死んだのよ」

私には、リルの言う言葉が、よくわからなかった。しかし、訊ねたりはしなかった。リルとグレイにしかわからない、リルとグレイだけの言葉なのだ。合言葉。愛辞か。



グレイはほんとうに、リルの死をみていたのだろうと、いまでは思う。

再びのクリスマスが近づいていた。グレイとリル、そして私の幸福なひとときから、ひととせが過ぎたのだった。ちらちらと降り始めた雪は降りやむことなく、本格的な大雪になった。しんしんと降りつむ雪は庭も街も白く降りこめると同時に、音さえも吸いこむ。家のなかもしんと静まりかえり、私は物思いに耽ったまま、いつしか眠りに落ちていた。

白銀の世界だった。私は雪のなかに埋まるように寝そべり、空を仰ぎ、次から次へと降れる雪を見ていた。私の眼は、雪の華、その結晶の微細な造形までをも、冴々と捉えていた。花が、白い花が無数に舞い落ちてくる……その一片一片が閃くように煌めいている……息をのむほどの美しさだった。美しさを壊さぬよう、汚さぬよう、自ずと呼吸を控えていた。そうっと手を伸ばし、雪の華に触れると、それらはたちまち、クリスマスローズや、スノードロップ、ナルキッソスの花に変わった。華が花へ、そして降る。祝福を思った。大悲も思った。それから不意に湧いたのは “この白く白いなかで死にゆこう” という思いだった。

束の間の夢だった。しかし、烈しい胸騒ぎがした。鼓動は早鐘を打っていた。リル、リル!そう叫ぶように呼んでいた。と同時に、メイドが私を呼びに来た。リルがいないと。外套も羽織らぬまま、雪用の靴も履かぬまま、家を出たようだと。

行き先は一つしかなかった。私はグレイの墓地へ走った。



リルは白いネグリジェ姿のまま、グレイの墓石の前に寝そべり、天を仰いでいた。手足や体は氷のように冷えきっているのに、額や首筋に触れると、ひどく熱かった。顔色は蒼白なのに、熱のせいで頬だけはほんのり赤みをおびていた。リルは焦点の合わない目線を泳がせながら、小さく口を開け、うわ言を言っていた。「花が、花が、降ってくる。惜しみなく、とめどなく、あるほどの花が、降ってくる」と。どこか恍惚としているようにも見えた。

私は、はたと気づくと同時に、戦慄を覚えた。この情景はグレイの描いた『白い花』、そのままであったのだ。そして、私のみた夢は、さながら、目の前のリルの、そして『白い花』のリルのみていたビジョンだったのか。

リルはグレイの絵を辿るように、ここに身を横たえたのだろうか?リルも自ら死へ向かったのというのか?

いや、あるいはグレイはこの情景を予見していたのか?予言を描いたのだろうか?

あぁ。あぁ、そうなのかと、愕然とした。視界がふたがれ、真っ暗になるようだった。私は絶望をみた。この絶望をグレイもみていたのだ、おそらくは。画家は、描いた己自身をも、疑い、疎み、恨んだことだろう。画家の自ら死へ突き進まんとするまでの発狂、その理由に触れた気がした。その呻き、苦しみ、底なしの闇……が、私のなかをも駆け巡った。

「リル死ぬな!戻ってこい!」私は必死で呼んだ、叫んだ。声の限り叫んだ。しかしそれも虚しかった。リルはとうとう目を覚まさぬまま、数日後に息を引き取った。

「あるほどの花が降ってくる」

その言葉がリルの最期の辞になった。私は、庭中の花を集め、リルの亡骸に添えた。冬の庭の花は、白い花ばかりだった。棺は、あるほどの花で埋め尽くされた。リルは花と共に、花のように微咲んでいた。

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