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阿弥たちの罔

考えることをやめた僕は飛び降りた。
僕は落ちた。
落ちたのは、溺れない小さな海、そのなかに落ちて助かる涙のなかだった。

僕は涙のうちに懐かれた。
だれの涙かわからない。
その小さな海に享けられて死に、とりまかれ、死を生きた。

そしてなおも落ちてゆく。
涙はどこまでも降りてゆく。

ゆくてにみえたのは、光り凪ぐ水面のような、なめらかで透明な、揺らぎきらめく罔だった。

無数のまなざし、声、言葉、ゆきかう交信、軌跡と飛跡、深く浅く刻まれた傷、集めれば星一つにもなる無尽の思い、それらの編まれ、織られて、もうほどけない罔だった。

幾層もの意味と思念で、罔に厚みをもたせているのはコトバだった。
コトノハが罔をなしていた。

涙という水の戻り……小さな海は、その罔をとおり抜けた。
僕はとおり抜けずに、その罔へとうつされた。
涙のつぎには罔に、またも享けられたのだった。

その罔には、捕らえられることはない。
僕のほうでも、罔を捉えることはできない。
あたたかく包まれて、まとうなら、ふわりと舞えそうだった。
僕をほどいてくれるのに、その罔は決してほどけない。

滓を織り、罔を編むのは阿弥たちだ。

彼らはうたう。
「ああ あみだ あみだ なみだ」と。
初めに落ちた小さな海は、ああ、阿弥たちの涙だったか。

僕は知る。
僕が痛みを受けとめるんじゃない。
痛みが僕を、いかなる悲傷も、受けとめてくれていた。
痛みは悼んでくれていた。

そしてまた、べつの痛みを覚えるが、この痛みは、かたじけなさを識る痛みだ。
あたたかな涙に気づけるときだ。

僕は掲げられたのだ。阿弥たちに。
彼ならここにいますよと。日のもとに。

光を呼吸し、僕はまた息を始める。
いつかまた生まれるだろう。
無防備にさらされて、身体と世界を穿ち、刻んで、その傷もさらして、光るものとして抱えて。
巻きこまれつつ、調和して。

ここにいてよいのだと。
あなたはここにいますよと。

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