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あわ

ふと目覚め、重いまぶたを開ける。
冥い底面。

あまりの冥さに、思わず、ふたたび目を閉じる。
しかし、からだの奥に、かすかな、それでいて底知れぬ、うねりを感じる。
ここは深いうなぞこなのだ、と思う。

底であるはずなのに、さらに沈むかのようだった。
からだがひどく重かった。
身を横たえたまま、じっとしていた。

不意に、「攀」という文字を思い出した。
むかし、詩人からもらった言葉だ。

「攀しなさい」……掴んで登れ……
「あなたは攀してきたのだ」と、いつか、詩人は言ったのだ。

当時も、わたしは底へ沈んでいた。
……うなぞこではなく、地の底だったが。
そのときは、苛烈なまでの地底の光によって、地上へと、はね返された。

詩人は、「あなたは攀してきたのだ」と言ったが、その記憶もなく、「攀した」ものが何であったのかも、未だにわからない。

いまこそ言葉を掴もう、「攀しよう」と思った。
ここは、言の葉の……
ゆえにこそ、言霊も……
幾重にも降りつむ、うなぞこなのだ。
手がかりもあるだろう、と。

しかし、言の葉どころか、藁をも掴もうにも、からだが動かなかった。
動けなかった。
ちからがなかった。
エーテルが枯渇していた。

虚しさが濃く、ちかしかった。
一方で、これでよいのだ、とも思った。
うなぞこの砂を掻き乱さずに済む、と。

諦観のまま、眠りに落ちた。
なおも落ちる次元があるのか、と不可思議にも思った。

うなぞこで……
あるいは、眠りの底で……
今度こそ、「攀した」もの……
それは、おそらくは、〈空〉だった。

掴んだ感覚はない。
何者かに、授けられるように握らされたのだろうと思う。

わたしのてのひらのなかの〈空〉は、意識のないわたしを、冥いうなぞこから、ふわりと浮かばせた。
そして、浮かび上がるほど明るさを増してゆく、一条の光の柱のなかを、ゆらりゆらりと漂うようにして運んだ。
やがて、わたしを、明るい岸辺にそっとおくと、すっと消えていった。

微睡みのなかで、〈空〉の泡の弾ける、いくつもの、ちいさな音を聞いたと思う。
泡たちは、喜々としたおしゃべりをしながら、次々と弾け、空へと還るようだった。

一方、もうひとりのわたしは、その一連を、他の無数の〈空〉の泡たちと共に、光る水面へと上昇しながら、みていた。
わたし自身が、〈空〉なる泡でもあった。
微細な泡は、光の粒子のようにもみえた。

どちらのわたしがみていたのかは、もはや不毛な問いだが……
同時に、わたしは、波立つ光の海をみていた。
初めの記憶というのだろうか……
原初の海ともいえるだろうか。
わたし自身が、波立つ光の海でもあった。

光の海の満ち干を起こすのは、まんまるの、光輝く月だった。
わたしの呼吸を……
〈空〉なるプネウマを……
熾すのも、この内なる月なのだ。

この星は……
わたしもまた……
月を宿している。
否、月にこそ、宿されているのか。

いつかみた、あわうみの水面に照り映えていた、比類なき輝きも、夢みるように思い出す。
あのときみたのは、いまこのときの記憶だったのか、と思い至る。
未来の記憶をみたのだ、と。

光波立つ海のなかから、〈空〉なる泡に運ばれて、懐かしく新しく、息をしにきたのだ、と。


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