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sand paper

紙やすりは、あるとき気づいた。
じぶんが、紙やすりであったことに。
気づいたら、よれよれで、ぼろぼろになっていた。
ざらざらな研磨面はすり減り、摩耗していた。
もはや、使いものにならなかった。

眼前には、瑕疵一つない、珠玉の「たま」が、つやめいていた。
珠は、あまりに透明で、すべてを透過し、あたりの光を一身に集め、光り輝くようだった。
まるで、涙の結晶、まなざしの粋だった。
皺だらけの紙やすりをも、まじりけなく、まっすぐに、ひんやりとやさしく映していた。

紙やすりは、あ、と思った。
この珠は、じぶんの磨いた「きせき」であると。
ひととき、おごれる気もちさえ湧いた。

しかし、すぐに、思い直った。
いや、磨かれたのは結果であって、じつは、散々傷つけたのだと。

そして、痛みと苦味をもって思い出した。

珠を、包むように、守るつもりでいたこと。
珠に、たくさんふれて、いつくしんでいたことも。

けれども、じぶんは、紙やすり。
ふれえたときには、すでに、傷つけていたのだ。
珠となった石と、じぶんは、共に摩耗し、離れ、もはや元通りにはならない。
ふれあうこともない。

さびしくて、さびしくて、珠をいとおしむ思いは尽きなかった。
いたわしく思う思いも尽きなかった。
苦しくて、切なくて、いたたまれない思いだった。

(あの「きせきのたま」は、たましいだったのだ)と、紙やすりは思った。
大切にしなければならない、大切なたましいだったのだ、と。

くたびれた紙やすりは、力なく、おろおろと、空を仰いだ。

おのれが、取るに足らないものと知ってはじめて、真なるものに気づくのか。
なにものにもふれえないものになってはじめて、痛切な祈りを識るのか、と。

空の青さが、あまりにも沁みいった。
と、同時に、その青に、身をなげうっていた。
懐かしさと憧れの、入りまじる青だった。

かつて、じぶんがたましいから削り落とした、たましいだった青の粒子が、いま、じぶんを、とりまいていた。
そこには、かつて、じぶんだった、じぶんのかけらも紛れていた。
すべてが一緒になってひらめき、瞬いていた。

軽やかに漂いながら、深遠なる思いにしずめられるようだった。

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