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神様の箱庭

1

ベランダから見える景色は、決して長方形というわけではない。
それでも目にする範囲は限られていて、ユイカは浅い息を吐き出した。
晴天、青空には雲ひとつない。
かすかな車のクラクション。遠ざかるエンジン音。
目を細め、少し身を乗り出すと、視界の端でなにかがきらめいた。
斜め向かいにある学校──そのプール。
灰色の柵で覆われているそこも、5階のベランダからはすべて丸見えだ。
水色の長方形は、日差しを弾いてやわらかく揺らめいている。
その上につーっと線が引かれ、つーっ、つーっと消えていく。
右端にひとつ、左端にひとつ。そのふたつの模様が、浮かんでは消えるを繰り返し、プールというカンバスに定まらない絵を描いている。
描き手は、同年代の少女たちのもよう。
彼女たちは、飽きることなく同じレーンを何往復もしていた。
ユイカのこめかみを、汗がつたった。
消毒液のにおいがよみがえり、それがひどく懐かしいもののように思えた。
おかしな話だ。水泳なんて好きじゃなかったはずなのに。
ピピピ、と腕に巻かれた通信機が鳴った。
どうやら時間のようだ。
部屋に戻ると、よれたシーツの上に横たわり、体温計を手に取った。
本日最初の検温の時間だった。


2

大きく動かした肩は、水中を進むための原動力となる。
しなる腕、あがる水しぶき、わずかな呼吸。
最後のひとかきをした指先が、プールの端にあたった。
カナデは水中から顔をあげると、軽く頭を振って、右耳を傾けた。
水面が降りそそぐ日差しを弾くが、それらを特にきれいだとは思わない。
もう慣れてしまった光景だ。当たり前の、ありふれた景色。
「おつかれ」と少し離れたところで声がした。
同じように泳いでいたはずのモモが、2レーン分離れたスタート台の隣に立っていた。
「もう泳がないの?」
「まさか。休憩。カナデも休めば?」
「もう一本、泳いでから」
短く答えて、再び水のなかに身体を潜りこませる。
泳いでいる間は、ただただ無心でいられた。
5ヶ月前、いきなり学校が休みになったこと。
終業式も卒業式も行われず、先輩たちは卒業してしまったこと。
多くの部活動は活動禁止になったものの、水泳部は条件付きでかろうじて認められたこと。
(ありえない、泳げないなんて)
カナデにとって、夏は「泳ぐため」の季節だ。
幼いころから今の今まで、泳げない夏など考えたことがなかった。

──「戦争が起きているらしいよ」

ここに来る前、モモが教えてくれた。

──「それもかなりヤバイやつ。だから学校が休みなんだって」

たぶん、よくある噂のひとつ。
とはいえ確かめる術はなかった。
自分たちの世界は狭く、大人たちはもうずっと口を閉ざしていた。
いや、案外大人たちも本当のことは知らないのかもしれなかった。
だって、先生も両親も、休校の理由を聞くとこう答えるだけだ。

──「すべては神様が決めたことだから」

神様──この世界のすべてを決めている人。
でも、どんな顔をしたどんな人物なのか、実はカナデはまったく知らない。
それは、カナデ以外の仲間も同じで、もちろんモモだってそのひとりだ。
そのせいか、モモはたまに大人との──つまりは神様がくだされた約束を破ろうとする。
「これ、あげる」
3往復泳いで顔をあげると、モモがすぐ真上にいた。
驚いた。こんなの先生に見られたら、即部活動中止だ。
「なんでここにいるの。あっち行きなよ」
「でも、離れたままだと、これ渡せないじゃん」
モモが手にしていたのは、飲みかけのドリンクだ。
「飲まないの?」
「いらない。味しなさすぎ」
カナデが受け取ると、モモはふらりと離れていった。
バスタオルを肩から落としたあたり、また泳ぐ気になったのだろう。
ただひとりの水泳部仲間──9月から学校が始まったら、モモ以外にも部員は増えてくれるだろうか。
大きな水音を聞きながら、カナデは飲みさしのボトルに口をつけた。
まったり口内に残るような、クセのあるライムの味がした。


3

暗がりのなかで、ユイカは目を覚ました。
どうやら、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
左手首の通信機を確認する。
2020年7月25日20;05──
まずい、半日ほど眠っていたようだ。
玄関に行くと、今日の夕食が配膳されていた。
白いパンと、パパイアのサラダ。
それと焦げのあるソーセージが2本。
正直、食べたいとは思わない。
この部屋に連れてこられて10日ほど経つけど、最近はずっとこんな調子だ。
ほぼ何もしないから、それほど腹も空かない。
やることといえば、決められた時間の検温と日記くらい。
せめて、絵くらい描かせてほしい。
そうすれば、少しは自分が今生きていると感じることができるのに。

──「神様が決めたことだから」

ユイカをここに連れてきた大人はそう言った。

──「神様の言葉には従わなければいけません」

わかっている。
だから、ある日いきなり見知らぬ人が現れて、病院につれていかれても、ユイカは素直に従った。
その後、家族と引き離されて、ひとりだけここに連れてこられたときも文句ひとつ口にしなかった。
だって「神様」が決めたことだから。
その神様がどこにいるのか、ユイカは知らないのだけれど。
油でテラテラしたソーセージをかじり、窓を開けた。
涼しい夜風に誘われて、半分にちぎったパンとともにベランダに出る。
黒々とした空には星こそ瞬いているものの、月はどこを探しても見つからない。
身体が重い。
まぶたが重い。
自分は、いつまでここにいればいいのだろう。
パサついたパンに歯をたてていると、チカチカと何かが点滅した。
学校の、プールのあたりから?
誰が? なんのために?
目をこらすと、黒い影がうごめくのが見えた。


4

モモと忍び込んだ夜のプールは、予想以上に暗かった。
電灯はもちろん、夜空には月すら浮かんでいない。
「本当に泳ぐの?」
モモの問いかけに答えるように、カナデは水中に身体を沈めた。
光のない水のなかは、まるで底なし沼のようだ。
今ついている爪先を離してしまえば、あとは沈むだけなのではないか──
もちろん、そんなことはないとわかっている。
それでもこの暗闇はどこか不吉で、なのに自分はそこに身を投じようとしていた。
(どうして、こんなに泳ぎたいのだろう)
わからない。
空っぽになりたいからかもしれない。
陸にあがれば、息苦しい空気に包まれる。
それは、なにも気温や湿度の高さのせいではなくて、この世界そのものがなんだかひどく息苦しくて、うまく息ができないのだ。
たぶん、あれからだ。
少し前、おかしな噂がたちはじめたあたりから。

──「ねえ、ヤバイかも」

一週間前のモモの言葉が脳裏をよぎる。

──「先輩と連絡とれない。やっぱ、神様に選ばれたかも」

今、神様が選んでいるのは、戦争に参加する人たちらしい。
もちろん大人が圧倒的に多いけど、たまに子どもが選ばれることもある──
それが、モモや同級生たちの間で広がっている「噂」だ。
選ばれた先で、何をさせられるのかはわからない。
そもそも「戦争」が何なのか、私たちの誰もよくわかっていない。
ただ、選ばれてしまったら、こんなふうに泳ぐことはできない気がした。
それなら、自分は選ばれたくはない。
神様の手から逃げきって、この夏を泳ぎ切れれば十分だ。
ぐるん、と身体を丸め、力強く壁を蹴る。
見えない水底をのぞくのはもうやめた。
ラスト一本──
真っ暗な闇のなか、カナデはただ身体を動かしつづけた。
咳き込むような声が聞こえたのは──たぶん、モモが潜水に失敗したからだろう。


5

検温の報告を終えたユイカは、久しぶりにベランダに目を向けた。
昨日まで降り続いていた雨が、今日はやんでいた。これなら、外に出ても差し支えなさそうだ。
ガラス戸を開けると、湿った空気が流れ込んできた。
不快だ。
それなのに、どこか懐かしいような気もしていた。
(夏だ……)
そうだ、夏だ。
自分の知っている夏は、これだったはずだ。
それなのに、神様はなぜ自分に「違う夏」を与えたのだろう。
ガラス戸の向こうが快適であることを、ユイカは知っている。
室温も湿度も完璧に調えられ、課せられているのは検温と日記だけ。
それなのに、この倦怠感はなんなのだろう。
日に日に頭がぼんやりし、身体の芯が腐っていくような気がする。
あのなかにいれば、じっとりと肌が汗ばむこともないはずなのに。
ふと、斜め向かいの建物に目を向けた。
プールでは、今日も誰かが泳いでいた。
ただ、水面に模様を描いているのはひとつだけだ。先日見かけたときは、それぞれの端にふたつの絵ができていたはずなのに。
物足りない。
ユイカは、目を細めた。
これじゃない。そうじゃない。
誰か、もうひとつ模様を描いてはくれまいか。
誰でもいい。
男子でも女子でも、大人でも子どもでも。

(いっそ、私が……)

こくん、と喉が鳴った。
不快な汗が、こめかみを伝い落ちた。
次の瞬間、ユイカはガラス戸に手をかけていた。
真っ白な床を横切り、履き物に足をつっこみ、玄関の鍵を外す。
勢いよく開けたドアから、生温い風が流れ込んできた。

夏だ。
私の、夏だ。
この扉の先に、私の夏が──

けれども、そこまでだった。
けたたましいアラーム音が、すべてをかき消してしまった。
発信元は、自分の左手首。
その通信機に目を向ける間もなく、複数の大人たちがユイカの目の前に立ちふさがった。
何をしているのか。
どこに行くつもりなのか。
誰の許可を得たのか。
次々と繰り出される詰問のなか、ひときわ耳に残った言葉。

──「神様に逆らうつもりなのか」

ユイカの夏は終わった。
彼女は後ずさり、当然のように大人たちは扉を閉めた。
その直前、同じ年頃の女の子が、向かいの部屋に案内されるのを見た。
「クリウ・モモ、503号室へ」
日に焼けた、同年代の少女──きっと、あの子も閉じ込められてしまうのだろう。
この国の神様が用意した「夏」のなかに。

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