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恋愛っていいな〜〜

 筆者はBLを嗜む。ネットに触れ始めた小学生の時に少年漫画の二次創作BLと誤って遭遇し、性欲以外の感情はないものとする男性らしさの規範から外れて感情を顕にする男性に魅了されたのがBLのルーツだ。

 たとえば儒教的上下関係の名残りとしての「男は女に本心を打ち明けるものではない、つけあがらせてはいけない、従えなければならない」という規範を内面化した男性と、自律せず葛藤せず性欲もないように書かれる女性の恋愛を描いた作品は本当につまらない。かえって女性が性欲だけでできているように書かれた作品は異常だと感じる。作家は女性にも性欲があるということをつい最近知ったのだろうかと思う。

 そのようなジェンダー規範に従った物語は、背景の手前で男性が不満を抱えながら動き回っては時々書き割りである女性に殴りつけたり愛撫したり鋏で切り離して譲渡し合ったり体液を掛けたりするだけのものになる。感情移入しようがない。そしてこの劇に音声は付属していない。

 百合ジャンル作品もあまり読まない。商業百合作品は両者が綺麗な女性である、または片方が容姿にコンプレックスを持っていることが多い。しかし登場人物は美しくなく、輝いておらず、それを気にも留めなくていい。書き割りの「疲れた社会人」でも「高校生」でもなく、「〇〇ちゃん」でもない人間と人間の邂逅が見たい。実際に人間が普段していることは邂逅だけでは無いとしても。

 『違国日記』は百合作品ではないが、女性が女性へ向ける意識を冷徹に描いた、ある意味では百合の高次にある作品だと思う。槙生は朝の保護者でありながら朝に影響を及ぼすことを恐れ、何をしても構わないという放任的とも取れる態度を取る。その姿勢は献身と表裏一体であることが物語が終盤に近づくにつれ明らかになる。「あなたがいつかすっかり忘れて構わないものになろう」(『違国日記』11巻167ページ)

 槙生と実里の間の羨望や嫌悪と断絶、完璧な母親として実里が朝に注ぐ愛、それを受けて育った朝と対面する槙生、全てが見事だ。また作中では語られないこともある。それは語り手である朝が知らないことであり、符合する答えを問い続けるかは朝自身が決めることになる。


 高校生活は何も背負っていない気楽な恋愛ができる、というような前提で描かれている作品は、その期間がそうであるかは人によるし、たとえそうだとしてもその関係はモラトリアムに甘やかされた子供同士の遊びに過ぎない。私は人間だから楽園に生えた草木のじゃれあいを見ても何も感じない。それは単なる猶予なのになあと思う。

 もしBLではなく子どものと時に海外のハーレクイン・ロマンスと出会っていたらその沼の中で青春を過ごしていたような気がする。しかし子どもの時でさえ社会の中で女性の役割を引き受けると損をすることは理解していたから、没入するのを嫌がったかもしれない。今でもその理解は変わっていないが、だからといって男性の横暴さや人に頼ってはならないという規範を猿真似する気にもなれない。

 最近は海外のロマンス小説を読む。ロマンス小説の主人公は大抵一回目の経済的・社会的に有利な条件の相手からのプロポーズを「気に入らない」という動機で断る。その描写は単なるわがままではなく自分を尊重すること、好きではない人間の子どもを産み一生を費やして仕えることを断る権利の行使を示す(母親が嘆くかもしれないが)。時代によっては相続権が無かったり有閑階級であることが足を引っ張り、プロポーズを断った主人公は経済的な苦境を自らの機転と才覚で切り抜ける必要に迫られる。その部分も醍醐味の一つだろう。

BBCドラマ「高慢と偏見」。母親が嘆きまくる


 プロポーズを一度断ったからといって全ての男性と縁を切る必要もない。ハーレクイン・ロマンスが目指すのは生涯に渡る主人公の幸福なのだから。

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