逢いにゆく
逢いに行くべきだとは思っていた。
今の地に越してきて一度もご挨拶に伺っていない。私のいる地区の人たちは古くからその神社の氏子だ。それもある。
思い切って出かけた。徒歩で20分だが、途中登りがあって少々こたえた。
いいの?こっち?
今日でよかったの?
不安になって空を見る。
そんな時、まちがいがなければ不思議とこの地区に住まう鳶(私がユグ、とよんでいるやつ)が飛んでいる。しかも、いつも行くべき方角の空をくるりと舞っている。
いた。優雅に飛んでいる。
分かったわ。いいのね。
到着した。
ひっそりとした鎮守。里山の奥に。
境内にはお正月の準備らしく、氏子の人たちが作業をしていた。
礼をして、まずは越してきたのに挨拶に来なかったことをお詫び。そして改めて、住まわせてくれていることにお礼を。
と、その時、涙が出た。
この神社さまは、とても無口だ。でもとても、在る。とても、見てくれている。包むように、けれどまっすぐに。
それがこのひとの言葉なのだ。
そして、このひそやかで確かな在り方そのものが…。
帰りに外の表示でご祭神を見て仰天した。
天照大神尊。
無意識に声が漏れた。
私が世界で一番愛している女性。亡くなった元上司の彼女を私は心の中でだけ呼んでいた。
母さま、
あるいは
姉さま、と。
彼女の笑顔が浮かぶ。
「大丈夫よ水宮さん。あなたちゃんとできてます。あなたはおかしくなんかない」
あの言葉。
家に帰ってからふと、昔見た夢を思い出した。
私の今生での使命らしいが、具体的にどうすればいいかはまだ不明。
夢はこうだ。
私はぼろぼろの元孤児で、ほかの歳の小さなぼろぼろの孤児たちを何人か連れて、小高い山を目指している。
ふつうの道だがけっこう車が通る。
大丈夫、気をつけて渡ろう、と引率していく。
子どもたちとは血縁ではないが、みんな可愛い。みんな守りたい。そして連れていくのだ。
あの山の上に神社さまがあるからね。みんなで行こう。
起きた時はなんだソリャと思った。
お正月くらいしか神社には行かない人間だったし、他に信仰もないし、孤児の子どもたちですって?私はタイガーマスクじゃないし。
てもその後何年かで、あ。と思うようなことが連続して起こった。
今の時点で分かっているのは、
「大人の中にいる子どもの心、こそを助けなきゃ。その大人の中の子どもが泣いている状態の人が、ひどいことを繰り返してる。実際の子どもたちをいじめてる。そうして大人に育った子どもたちはまた繰り返す」
ということ。自身の体験も含めて。
子ども子ども、と大事にする側の大人の中に閉じ込められて泣き叫ぶ子どもたちは、じゃあ誰が助けるの?誰が抱きしめるの?ということ。
子を持たなかった私の、今生の使命。
次は神社。別にいまはどこの所属もなんもないが、行くのは好きになった。
そして基本的に願い事はしない。
逢いにゆく。
ただそこへ。
で、もう一つ日頃、気をつけていることがある。
ずいぶん前に詩の形で書いている。他にもたまに散文的に現れる現在の私の生活モットー。
「逃げろ、隠れろ、消えていろ。」
ということ。
音を立てないで、聴いて。見られることよりよく観て。表面だけではだめ。本質を。声を出してはだめ。そして、あまり表に出て目立ってはだめ。隠れていなさい。そこからよく見て、考えて。なすべきことをそこでして。
ほとんど目に見えない何者かに命じられるように、そうしてきた。
あの神社の佇まい…
ひそやかで。
でも厳かに、自然に、誇り高く在って。
愛してくれている人たちを抱くように見ていた。
私のことも。
黙って。
まなざし。
母さま。
姉さま。
優しい言葉。
誰にも言わず誰よりもきついお仕事をされていた。
笑っていた。
胸の中でもういちど、あの女性(ひと)が死ぬ。
心が引き裂かれる。
彼女を連れて行くなら私を代わりに連れて行って!
と、神社に行って、人生で一度だけ神さまにキレた日。
ちゃんと彼女はいてくれた。
あのままに。
とても心強くなった。
もうどこか痛かろうが悲しかろうが、耐えられる。貴女は耐えて笑って生きた。まねするの、貴女の。できなくても繰り返し繰り返しやるの。この一番できそこないの私でさえ貴女は助けてくれた。可愛がってくれた。家族縁が薄くても、そんなのなんだ。貴女に逢えた。
夢は一気に分かったわけじゃない。
その使命を叶えられるかも分からない。
でも、それでいい。やってみる。
また逢いに行きますね。
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