見出し画像

本の猫

めがねをかけるようになって、頭が痛くなるが読む。


バスルームにも、そこにもここにも。毎日片付けてはまた読み散らかす。数は少ないのでおおごとにはならないが、ちまちましとる。


しかし本の中の世界は自由な次元だ。海に森に街に砂漠によその国、店にオフィスに美術館に他人の家、ミクロにマクロ、現実に想像、バカにロマンにわびにさび。


大島弓子さんの「綿の国星」作中で、子猫のチビが山で迷うくだりがある。
山には、そこら中に猫にちょうどいいドアがあり、おいで〜と呼んでいる。チビ猫はついついそれに惹かれて飼い主トキオとはぐれてしまうのだが。
本の世界も、それと似ている。
本は内側に呼び鈴を備えたドアで、今日はどの鈴が鳴るのやら。


本日は、よく「鳴る」私の少ないライブラリより。


杉浦日向子の「百日紅」、とくに下巻。
今はもう江戸の扉の向こうへ帰ってしまった作者が描いた、葛飾北斎とその周辺の人間たちの江戸浮世、時にあの世を含む人生模様。一話完結の物語集。


下巻には、私が最も好む「酔(すい)」という話がある。


洗い髪姿で酒豪の遊女・滝山は、どんな強い酒でも飲める。酒合戦で関取に血を吐かせて打ち負かすほどの強さから、滝夜叉姫などと噂されるクールビューティー。

北斎の居候絵師善次郎が友人の酒豪絵師・国直をけしかけるが、国直は一人で対決してみたくて善次郎を巻き、一緒に暮らしていた同門の国芳を見届け役として彼女との酒合戦に挑む。勝てば絵描きとして見逃せない、とてつもない代物らしいが誰も見たことのない滝山の背中の彫り物を見せてもらう肚づもりだ…


「酔えねえ酒なんてせつねえばっかりにちげえねえもの」


これはラストの国直の台詞。
さて、どっちが勝った?そして物語の結末は?

粋、すい、というものは、若い時こそ憧れるが、そういう奴は「粋がっている」と上の世代からへこまされるものだ。
これは世界共通の年寄りの悪い癖。得意げにそんなこと言うから、若さを楽しむことより早く一人前に、早く大人にと生き急ぐ若い人が増えてしまい、みんなこぞって歳を食ってから「若い時はよかったなあ、戻りたいよ」なんて悔しがる。
勿体ないこと。


粋、は年季がいることだ。多くを経験し、知り、学び、成功し、失敗し、立ち直り、諦め、それなりに自分なりのテキストとテイストが熟した者がやっとさらりと言ったり行える事。


それまでは口惜しいが真似るしかなく、真似るは転じて「まなぶ」になった。


歳をとっても、でもまだ好奇心がある。楽しいこと、ほんとうに心浮き立つことを知っていて、むりをしないように楽しむ。
野暮天を揶揄いながら、でも時に「こんな自分なんて、なあ…」ってちゃんとふさぎこんだり。


そんな年増に粋がる若者に、困った爺さんである北斎。
この本は北斎を筆頭に、娘の絵師お栄や居候善次郎や他の流派の絵師、花魁、幇間もその時々の主役になり、むしろそうして北斎の異彩を浮き彫りにしてゆく。


そしていまと変わらぬむかしの人々の心を、そしていまは決定的に失われてしまった心を、美しい漫画が織りなしてくれる。


江戸至上主義でもないし、昭和擁護派でもなく、まあどんな時代もいいものだし悪いところもある。それでもタイムカプセルとして本は有効だ。


カプセルの中に輝く宝石はしかし、もう現代の浮世の空気に触れたらもろもろと崩れてしまうものも多いだろう。

新蕎麦の季節。杉浦日向子先生は酒と蕎麦に関しても素晴らしい本を出しておられる。
かけと、熱い酒が恋しいねえ。


さて、眠くなったので猫に変身して、本を枕にちょっとひとやすみ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?