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明日が来るのが怖いとき、どう過ごそうか?(生きているだけで毎日が旅#5)

生きているだけで毎日が旅。

旅に出ている時、私の五感は研ぎ澄まされている。

そうすると、色々なことが頭に浮かんでくる。
あること、ないこと、色々なこと。

旅は楽しいけれど、あんまり楽しくないことを思いつくことがある。


仕事をしていて、夕方、ちょっと遅めの休憩をとった。
コンビニで買った菓子パンを食べながらコーヒーを飲んだ。
ブラインド越しに西陽が差して、ぽかぽか暖かい。
暑いのは得意じゃないけれど、ぽかぽかしているのは大好きだ。

椅子に寄りかかり、天井を眺めながら、ふと「明日が来るのが怖いな」と思った。

明日が来るのが怖い、なんて思ったのは多分初めてだ。
そして今まで未来に希望いっぱいで生きてきたことに気づいた。

これまでのことを振り返ると、どちらかというと「明日が早くきてほしい」と思っていることが多かったように感じる。
旅行に出掛けていると、今を楽しむとともに次の旅程のことをもう考えていて、旅行が終わる時には次のイベントのことを楽しみにしていた。
手応えのなかった試験の合格発表とか、緊張する面接とかは、1日でも早く終わらせたい。

これまで生きてきて一番辛かったのは、多分休職していた時だった。
その時は辛かったけれど、その時は自分なりに次の楽しみを見つけて過ごしていた。
行きたいところに行ってみたり、仕事に復帰した後のことを楽しみに筋トレをしたりする。
毎日辛くても、早く明日が来て欲しかった。


今は、いや、ここ最近は、明日が来るのが怖い。

何が怖いのか考えてみる。
まず目先のことだと、明日朝起きた時、仕事に行ける状態かどうかが怖い。
仕事に行けないのはつらくて悔しい。
自分でも、なんで行けないんだろうと思う。

仕事に行けたとしても、仕事をしている将来の自分が全く思い浮かばないので怖い。
思っていたのと、言われていたのと、希望していたのと、違うルートにいるなあと思う。
そこを歩いているというより、入り口付近にずっと突っ立っていて、いまだにどう進んでいいかわからないし、先行きもわからない感じがする。

言われたことを言われた通りにやっているけれど、うまく行っている感じが全然しない。
今は手応えの無さに慣れてしまってきている。慣れって怖い。

最初この仕事を始めた時は、不安で不安で仕方がなかった。
ありのままを言うと絶望していたし、毎日仲のいい先輩の前で泣いていたし、究極言うと嫌だった。

「他の人がやりたがらないことこそやるべきだ」
「与えられたものに文句を言っては行けない」
「あなたは選べる立場ではない」
ずっとずっと言われてきたことなのに、私は不満を呈してしまった。
そのことを今は後悔している。
思っていればまだいいことが、言ってしまったことで本当のことになってしまった。

1週間くらい仕事をしてみて、もう嫌だとか不安だとか思うことに疲れ果てて、丸一日眠り続けたのち、無の感情になった。

それからさらに2ヶ月くらい経って、再び仕事のことを考えるようになった今、「明日が来るのが怖い」と言うことについて考えている。


仕事に軸足を置くことの危うさはかねがね聞いていた。
ずっと私は社会に出られるのか不安で生きてきた。
急に大人になった私を俯瞰したら、私の生活の中心は仕事になっていた。

仕事が好きで、好きな仕事をずっとしていて、「どうしても好きだと思えない仕事」をすることを考えたことがなかった。
そしてそうなった時に、他に自分の身を委ねられるものも人もいない。


ある人は「続けることに意味がある」といい、
ある人は「辞めることに意味がある」と言った。
今の自分にはどちらも信じ難い。

よく言われるのは、仕事のような危ういものでなく、生活のような確かで大切なものに軸足を置いた方がいいと言うことだ。
菓子パンを食べている場合では無い。

以前、音楽のことを書いた。
音楽をやっていた時は音楽に軸足を置く危うさを感じていた。
芸術という実体のないものを信じ難いと思っていたけれど、そういうものこそ心の拠り所になるかもしれない。


明日が来るのが怖い。
それでも生きている限り、明日は平等にやってくる。

明日は何をしよう。
久しぶりにベースを弾いてみようか。
お昼ご飯はエビフライを食べようか。

皆さんは明日が来るのが怖いとき、何をしますか?

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