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てぃくる 6 一

(チンアナゴ)


「一ってのはさ」
「うん」

「便利なんだよね」
「どして?」


(チンアナゴ)


「増えても、一ずつしか増えない」
「うん」

「減っても、一ずつしか減らない」
「へー」


(チンアナゴ)


「一を掛けても、一で割っても、変わらないでしょ」
「確かにねー。でもさ」

「うん?」

(チンアナゴ)


「僕らは、一じゃないよ。えへん」
「……」

 人間は、生物分類学的には群れを作るサルの一種ですね。本編の中でも、中沢先生にそう言わせました。
 群れを作る意義は、集団を作ることで狩猟の効率を上げ、天敵から身を守り、同時に確実な繁殖を行うところにあると思います。しかし、今はそれらの意義が薄れました。農耕によって狩猟への依存度が下がり、脅威となる天敵はすでにおらず、群れに依存せずにパートナーを探す機会も爆発的に増えましたから。
 それなら個人がもっとばらばらに暮らすようになってもいいはずですが、現実はそうなっていません。

 今わたしたちは社会や国家という群れに身を置いています。ロビンソン・クルーソーのような完全に孤立した生き方は、現実には誰にもできないわけで。どこかの集団に自分を帰属させることはどうしても回避できません。
 でも集団というのは単なる容れ物。そして、中身の我々は雑多なんです。その集団に国家とか社会とか企業という名前がつくと、途端に胡散臭くなります。何者かによって掟が定められ、その掟に従うパーツとしてわたしたちをカウントし始めます。
 いや、ちょっと待って! わたしたちの生存や生活を容易にするための群れが、いつの間にか個を凌駕してしまうってのはおかしなことだと思いませんか? 飯茶碗がよそわれる飯をバカにするようなもので、何様かと思うんですが。現実として、個と集団の本来意義は逆転しています。
 帰属を強要される者にとっては集団から押し付けられる掟が苦痛にしかなりません。猛烈に息苦しいんです。

 集団への帰属圧力以上に厄介なことも頻発していますよね。個としてのわたしたち同士が争う以上に、群れが激しく衝突するようになったんです。
 本来群れを支えるための善意の手が。その同じ手が。しばしば他の群れを容赦なく襲う。なぜ群れる必要があるのかという原義を置き去りにして、形だけの群れが制御されずに暴走してしまう。そこに、人間というサルの限界があるのかなあと思うのです。

 わたしは理想論のコミュニズムを信じません。
 わたしは形骸化したナショナリズムを信じません。
 わたしはわたしであり。
 誰かを足すことも、引くことも出来ません。

 ええ、わたしは。
 一つきりしかありませんから。

(2013-02-06)

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