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おもろいやんけ

「内輪ネタ」や「楽屋落ち」という用語がある。説明不要でほとんどの人に通じると思うが、一応説明すると、仲間うちだけに通じて、他の者にはわからない話のことを指し、お笑い番組などでよく聞くため、一般にも浸透している言葉だと思う。

狭いコミュニティの中だけで通じる話というものは、一種独特であるからこその爆発的な面白さがある。限定的な笑いは、限定的であればあるほど、その話を知っているという特権的な意識も作用して、強い笑いを生み出す。だからこそ、笑いというものは、本来偏ったもので、すべての人に通じる笑いというものは、ないのかもしれない。
だが、話を発展させると、その話を面白く感じるためには、そこのコミュニティの中に所属する必要があるという、逆説的な事態が発生する。そして、さらに言えば、その中でだけもてはやされている話というものは、外部から見ればつまらない話に見える可能性があるともいえる。

この考えは、主義・思想によるもので、必ずしも万人に当てはなまらないかもしれない。しかし、私は自分を快く受け入れてくれて、もてはやしてくれる身内の中にいるだけでは、絶対に成長はないと思っている。お笑いでいえば、成長しないということは、つまらなくなるということで、それは、上記のとおり、コミュニティ内に所属している人だけに通じる笑いというものは、外部から見ればちっとも面白くもないわけで、それはもう学園祭の出し物レベルのものを見せられているのといっしょになってしまう。

私自身、何かをしようと考えるとき、それが身内だけの盛り上がりになってしまっていると感じると、寒々しい気持ちになるし、長期的に見れば、身内だけの享楽というものが良い方向に転がることはないとも感じる。
そういうぬるま湯のような場が発生した時は、すぐさまその所属から離脱するべきだと考えるし、自分がそういう場を作り出す当事者になってしまわないようにと、常に戒めの気持ちを持っている。

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