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日本の法律もローマから!?

 昨日、法律の根源についてまとめました。歴史を振り返ると、ヨーロッパの国々の法律はほとんどが「ローマ法大全」をものにして作られていたことが分かりました。

 調べていくうちに、日本の法律も元を辿れば「ローマ法大全」を元にしていることに気付きました。

 今回は当時、徳川幕府の支配に苦しんでいた日本にどのようにして海外の法律が組み込まれていったのか、時代背景を振り返ってみました。


①幕末の混乱

 1860年代、徳川幕府250年の長い支配の中当時の日本は政治的、経済的な問題が多く、経済的困窮やそれに対して一揆や反乱が多発していました。加えて、欧米列強の圧力にも悩まされていました。

1853年
 ペリーが来航

1854年
 徳川幕府は日米和親条約を結ぶことになります。これは日本にとって都合の悪い不平等条約でした。

②尊王攘夷運動

 幕府の頼りなさから、藩士や庶民は天皇を中心として政治体制を求めます。この時活躍した有名な人物といえば、西郷隆盛(薩摩藩・鹿児島)木戸孝允(長州藩・山口)。当時ライバル関係だったこのニ藩を協力関係に持ち込んだのは坂本龍馬です。

1867年
 尊王攘夷運動によって、当時幕府トップの徳川慶喜は天皇に政権を返上しました。これが「大政奉還」です。
 幕府がすぐに引き下がることもなく、戊辰戦争が起きます。

1868年
 明治天皇は、「五箇条の御誓文」を発布。これは、新政府の基本方針、日本の近代化、国民の自由を約束するものでした。

1.民主的な政治を行うこと。
2.国全体が協力して国家発展に努めること。
3.全ての人々が自由に志を果たすこと。
4.悪い悪習を打破し、公正な道を歩むこと。
5.世界から知識を取り入れ、日本の繁栄を図ること。

以上の5つが内容になります。

③海外との不平等を消すために

 海外の技術や学問を取り入れるべく、外国との交流を深めていった政府でしたが、人が増えることで事件や事故も増えていってしまいます。
 当時悩んでいたことは、外国と日本の裁判における判決基準のギャップでした。仮に外国人が日本で罪を犯した場合、日本の法律ではなく外国の法律で裁くという権利「領事裁判権」によって納得のいく判決が出しずらい状況にありました。
 この両国のギャップを埋めるべく、政府は迅速に西洋の法律を学び取り入れようとします。

 その西洋の法律こそが「ローマ法大全」を元にした法律でした。つまり、日本の法律も元を辿れば「ローマ法大全」ということになります。

④まとめ

 人の価値観や判断基準は十人十色です。人が人の判決をするとなると、納得がいかない、不平等だと感じる人も出てきてしまいます。僕は法律は堅苦しいイメージを持っていましたが、法が人を支配することで、国の平和や個人の人権、安全を守る事ができる大切なものなのだと、今回の勉強で知ることができました。

 次回からは、明治から現代にかけてどのように法律が変わっていったのか調べてみます。

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