見出し画像

とある受験生の散文

声がきこえるのはいいことで、音をかんじるのはもっとずっといいことだ。

それらは僕らが目の前の仕事に一生懸命になっているときには聞こえてこない。まるで一生懸命やめな、といわんばかりに。でもやっぱり必要で、目の前の仕事に勤しんでその音が自然と聞こえなくなるまで手足を動かすんだけど、そのうちにさみしくて帰ってきてしまう。自分だけの音がない世界なんて画一化されたテレビの映像みたいで色がない。フィルムの写真にはまだ世界のいたずらが僕たちがそこにいたことの印みたいに残っている。

尊敬するあの人がこれを見たらとか、みんなと同じようにこれくらいしなきゃとか、考えていたけど、僕は僕ができる最大限のことをずっと前から知っていたのだ。休むこと、食べること、あいすること泣くことなげやりになること感謝すること。もうなにひとつ恐れるものはない。

一度過ぎ去ってしまった時間がまるでフィルムに焼き移されたように、なにをすればいいのかが分かっていた、わたしのこころは整っていた。数日前のあの不必要なほどの緊張が嘘のようだった。この変化は単なる恒常性によるものなんかじゃない、いうなれば未来がわたしに手渡したものだ。僕は僕がどう過ごしていけばよいのかをわかっていた。今はもう。

先を歩いた自分が待っている。巻き戻ってしまった半身が、それを取り戻すために僕はもうまわりを見ません。合格するから、走れ、といわれている。道はある、よそ見をするな、その頭で理解したとおりにここまで走れ、一直線に走れ!

失ったわたしがそこでその日を迎えるのを待ち焦がれている。また一緒に音を聞こうよって。不完全なぼくは走る、はしる、走り続ける。再び重なり合った僕らがもう一度あの音を聞くためなら、その日まで走ることができる。

サポートまで……ありがとうございます。大事に使わせていただきます。