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渋谷fabcafe srecette氏の創るパフェ。ひとりの作品に出逢いつづけて。

彼女との出逢い

エスルセット、というなんとも読みづらい名前のパフェ職人の作品を初めて口にしたのは2016年の2月で、その頃srecette氏のパフェは今ほど有名ではなく、『魅惑のチョコレートパフェ』という名に惹かれてふらっと立ち寄ったチョコレート好きのわたしもすぐに食べられた(これはfabcafeで彼女が作った3作品目だった)。

画像:Fabcafe公式HPより
https://fabcafe.com/tokyo/events/valentine-2016

印象的だったのは、金柑のソルベ。柚子でもなく、オレンジでもなく、金柑が使われるのは意外なことで、でも、チョコレートに、すごくよく似合っていた。じんわりと、感動した。その感動は今もずっとこころの奥にある。(ときどきね、思い出すんですよ。ねっ?)

作品の変遷

それから時が経って、2017年5月のこと。8作品目の『Mintopia(ミントピア)』でsrecette氏のパフェに再会を果たしてから、食べられなかった作品がありつつも、ずっと彼女のパフェを追いかけていて、noteでも何度か文章を書いている。作品には作品で答えなければならない、という思いもあって、それは単なる感想ではない文章になった。

srecette 10th parfait 『TATIN(タタン)』

srecette 16th parfait 『Contour(コントゥール)』

srecette 17th parfait 『Éclore(エクロール)』


感想がだんだん抽象的な話になっているのは、彼女のパフェが回を追うごとに作品としての強度を増したからだ。13作品目の『Rêverie(レヴリ)』からそれは明確だったように思う。レヴリは、映画のような雰囲気を身に纏っていた。でも、その時点では、それは雰囲気にとどまっていた。写真で例えるなら、色合い。人に例えるなら、魅力的なお姉サンの、すこし思わせぶりで、色気を感じさせる動き。

srecette 13th parfait『Rêverie』

残念なことに、14作目の『Métaphore』、15作目の『Approche(アプローチ)』とは出逢えていない。その頃にはもう地元の沖縄に帰っていて、仕事も忙しく、予定が立てられなかったのだ。だから、だからこそ、16作目の『Contour』は、わたしにとって大事な作品になった。強く願った再会にこみ上げる嬉しさと、感じた成長と。明確な物語をそこから感じ取ることができた。今までもあったかもしれないけれど、パフェは作品として、わたしは食べ手として、きっとなにかが足りていなかった。物語を紐解くための、なにかが。

17作品目の『Éclore』について、わたしはnoteで、こう書いている。

パフェが表すのがひとつの物語であるとするならば、この作品は、srecette氏のなかでもっとも成功したものだったと思う。今までのパフェがショート・ショートの小説だったなら、今回のパフェは長編映画といえる。とても丁寧に作り込まれ、そこには意図がありながら、映し出されるのはいきいきとした演者の姿だ。

そして、このまま『作品』としての強度を上げ続けていくのだろうか、と思っていた矢先、18作品目の『Écume(エキューム)』で、期待を裏切られた。もちろん、いい意味で、だ。

srecette 18th parfait『Écume』

『Éclore』は確かに魅力的だったが、鑑賞に労力を要した。わかる人にだけわかるアート作品のような感覚があったのだが、『Écume』を食べたときに、それが大衆にとって優しい参加型のアートに変化したような感覚があった。こんなに、すんなり、ただただ、おいしいなんて。驚くほどフレンドリーで、呆気にとられたほどだ。srecetteさんは大衆の描くパフェ像から一度おおきく離れ、そしてまた自らの作品の立ち位置と、自分に出来ることを確かめるかのように、戻ってきた。

最新作『brume』を想う

では、最新作、19作品目の『brume(ブリューム)』はどうだろう。

霧、という捉えがたいものの名を称されたこのパフェは、多くの食べ手から「儚い」と称された。そもそも、今までとはグラスの容量が違うのだ。時間的に、質量的に、すぐに食べ終わってしまう、という点においてこのパフェは儚いのだろう。それに加え、生いちじくという短い時期しか味わえない秋の味覚特有の香りが、アルコールと相まってさらに美しい香りを放ち、その香りから来るインパクトは、失ったときの悲しみを味わわせる。

というのが、『brume』の儚さだったのだろう。
(パフェ友達のじく君は、一度目にこのパフェを食べたとき、失恋した、と言った。)

しかしわたしは、このパフェに儚さを、あるいは捉えがたさを感じなかった。そこにはむしろ安心感や信頼があったように思う。霧の中に、わたしは実体を見ていた。その姿はとても確かで、夢ではなかったのだ。しかも、どこかで見たことがあるような。

先述のパフェ友達は、『brume』に12作目の『Vert(ヴェール)』の姿を見出した。おそらくそれは大正解なのだ。作者のsrecetter氏自身が、その関係性を認めている。主役となる果実のソルベに、ブランデーを効かせたトップのパルフェ、スパイス使いに、パーツへのワインの使用などが共通点として挙げられるだろう。

じく君がパフェとその読解にかける情熱(いや、執着か)は凄まじく、鋭いので、srecette氏のパフェにかんしていえば「だいたい彼の思ったことは正しい」くらいに思っているのだが、『brume』に私がみたのは『Vert』ではなく16作目の『Contour』だった。と同時に『Vert』だと言われたら、たしかにと納得できる。『Approche』を食べていたなら、それも思い出したことだろう。

『brume』は霧だ。それが見せるのは幻想かもしれないし、あるいは、誰かの影かもしれない。

わたしは『Contour』の感想をnoteにまとめたとき、こういった感想を残している。

パフェの終わりにはクランチが入っている。突然のザクザク。はっきりとした食感に、はっと目を覚ますような気分になった。あ、これはパフェで、これは現実だったのか、と。

「儚い」とも書いた。それから、この文章を。

名前を変えて、姿形を変えて、味や香りを変えて、あの人のパフェのなかから、貴方はこの世界に降りてくる。こちらを見にくるようにして、現れては誘いをかける。

これは私の勝手な解釈だが、『brume』は、逢いたいパフェに、もう一度逢えるパフェだったんじゃないだろうか。だから、『Vert』のときとの違いを見せつけられた彼は失恋の悲しみを味わったし、似姿でもいいからもう一度『Contour』に逢いたかったわたしは、安心した。来てくれたんだね、と。

また、上で述べた3つのパフェには共通点がある。それは彼女ら(この3つのパフェすべては女性に感じる)が、その名前の体現とは別に、季節の体現であるということだ。

『brume』は秋の終わりを、『Vert』は初夏を、『Contour』は春の訪れを。季節の変わり目というものは、いつだって儚い。だからこそ美しい。そして、季節は、巡っている。同じ日はないけれど、同じ空気を感じる日はやってくる。歳を重ねるごとに、感じ方も変わる。彼女のパフェも同じように思えるのだ。新作と過去作が同じことは決してないけれど、いつもどこかに思い出をのせている。食べ続けることで、感じ方が変わる。より一層、愛おしいものになる。

ちいさなグラスに入った『brume』は、しっかりと自分の味を表現しながら、いつものグラスと変わらない満足感を与えながら、限られた時間の中で、わたしたちに夢をみさせてくれた。見たかった夢を。最後はミルクでするんと、優しくその夢を包み込んで、囁くようにこう言った。

「現実にお帰り、また逢いましょう」

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