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時間を聴くという贅沢——長田弘の詩とエッセイに重ねて

模試の過去問を解いた。2020年8月、夏季講習の一日(いちじつ)。

来年度から実施される「共通テスト」の形式にあわせて、これまでのセンター試験とはすこし変わった形式の問題になっていた。

第2門 次の詩「聴くという一つの動詞」(『世界はうつくしいと』、二〇〇九年)とエッセイ「ひそやかな音に耳澄ます」(『幼年の色、人生の色』、二〇一六年)を読んで(ともに作者は長田弘(おさだひろし))、後の問いに答えよ。

現代文を解くときはいつも、問題を受験生の立場で「解くべきもの」として読みながら、同時にそれをひとつの作品としてみている。単純に解くだけなら、前者の見方だけでいい。後者の見方は、ときに解答までの思考過程を妨げる。またときには読解の助けにもなるけれど、それは稀なことで、得点を得るのに無駄といえば無駄な過程なのだ。別の言い方をすれば、そうするだけの余裕がある、ということかもしれない。基礎の身についていない古文や漢文を、解くために読みながら並行して楽しむことはまだむずかしい。

長田の詩とエッセイを読む。いつのまにか、周囲の音が遠くなっている。問題に集中し、長田の世界に引き込まれ、そこに自ら入り込んでいっている。身体はわずかな浮遊感につつまれて心地がいい。好きな問題文を解いているときは、こういう気分だ。

静けさというのは、何の音もしないということとは違う。静けさよりももっと静かな、もっと微かな音が聴きとれることだと思う。

「ひそやかな音に耳澄ます」より

このひとは、わたしと同じ感覚を持っているのだと、思わず嬉しさに舞い上がった。音。おと。オト。静かで、心地の良い、生活のなかのそれら。わたしのこころを落ち着かせるものたち。

意識して、あるいは意識しなままに、周囲のさまざまな音のなかに好ましい音、好ましくない音、知った音、知らない音をみずから聴き分けることで、おそらくひとつの心の秤(はかり)は、微妙にたもたれている。音の景色は、すなわち心の景色だからだ。

「ひそやかな音に耳澄ます」より

わたしは、昨年の夏に訪れた、青梅の一軒家を思い出していた。Airbnbで出会ったその民泊は、ご高齢でありながら背筋のぴんと伸びた、上品で穏やかな雰囲気の女性の住む家だった。大通りからも、線路からもほどよく離れた場所で、静かだった。そこで過ごした朝の心地よさが忘れられない。寝室のある二階から降りて、一階のリビングで朝食をとる。リビンクの窓から、ガーデニングの花々を世話する女性の姿がみえる。テレビはない。わたしが食器とスプーンを鳴らす音、咀嚼する音。彼女が花にあげる水の音、彼女の歩く音。とおくから、車の走る音、電車の行く音。

何もない浜辺で、
何もしない時間を手に、遠くから走ってくる波を眺める。
そして、何もない浜辺で、
何もしない時間を手に、
波の光がはこぶ海の音を聴く。

「聴くという一つの動詞」より

最近、友人から「みずきさんと過ごすと、時間をゆっくりすごすのもいいなと思う」と、そんなことを言われた。自分はいつも「いそがしく」しているから、と。「いそがしく」ってどういうことだろうか。時間を無駄にせず効率化する、生産性を上げるとか、そういうことかもしれない。ゆっくりと過ごす時間には、静けさを聴く余裕がある。静けさを聴く時間は、ゆっくりと過ごされる。

日々に音をつくりだすのが文明のありようであるなら、文化というのは静けさに聴き入ることだと思う。

「ひそやかな音に耳澄ます」より

青梅のあの家、あの朝が、そこにあった音が身に染み入っていく感覚を鮮明に覚えている。「ほどよく静かな、こんな場所で、物を書く人生を送りたい」と思った。

現実に戻っていく。問題がそろそろ解き終わる。

わたしは、夏の音が好きだ。蝉の声に、青く突き抜けた空と真っ白な雲の音、やさしくつよく吹く風の音。それから、教室の音も好きだ。先生がカッカッっと黒板にチョークを当てる音、そのあいだ教室の沈黙に流れ込んでくる通りの車の声、サラッというプリントの擦れる音。

先生の声が、響く。

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