セカイの見方、見え方
ロバート下北沢のタブロイド2号目制作のため、ADの奥谷さんと雑談。
奥谷さんの友達が、このセカイをどう捉えているかの話になった。
奥谷さんの友達、ヒカルは、自分自身が白い箱の中にいて、周りで起きている現象をスクリーンを通して見ているような感覚に近いらしい。
関わる人たちのそれぞれの人生がスクリーンロールだとすると、それがずっと流れているような。
関係が近しくなると、自分の箱の中に実際にその人を中に入れることもできるし、また箱の外に出すこともあるし。
だから、その箱はヒカルのセカイで、その箱の中から見えているものをそのまま絵に描きおこすことがヒカルにとっての幸せらしい。
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わたしたちはどうか。
奥谷さんは自分のセレクトショップをいつか持ちたいと密かに夢見ている。
音楽や民藝、洋服が好きで、自分のセンサーに引っかかったものは国や地域問わずに紐解いて自分の手元に寄せたくなる。
いろいろな場所から糸を引っ張ってきて、その糸を収集したり、その糸を使って編み出したり。きっとイメージに近いのかなとなった。編集に近い感覚だ。仮説だけど。
だからこそ、前回のタブロイド制作のように、音楽、グラフィックなどジャンルを限定せずに、テーマに合うと思ったものは収集して、それらを流したり、近くにおきながら創り出すと、いいものが編み出される。
わたしはたぶん、iPhoneでいうLive photosとかGIFのような記憶の集積を終始流している感覚に近い。(だからヒカルのスクリーンの話を聞いて若干の共感を覚えた。)
常日頃から、それらを重ね合わせたり、配置し直したり、透かしてその奥を想像したりしながら生きている。だから話している時も、どこかと照らし合わせていたりする。
カメラで写真を撮っている瞬間は、目から入ってきた「記憶」としてパネルに並べずに、カタチに残る「写真」として記録できる。それに、カタチになってしまえば、瞬時にそれが過去になった感覚があるから変にリピートしてしまったり、感情が手持ち無沙汰になることもないからストレスフリー。そういう意味では性に合ってるんだと思う。
ストレスが溜まると、そのパネルの前でじっと動かず座りながら(寝転びながら?)いろいろな記憶を10画面くらい同時再生して垂れ流しするから、頭がとんでもないことになるし。
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去年の夏に初めて宮古島で体験したスキンダイビングが今でも最高だと思っているのは、自分の身体が動いた分だけ映像が流れていくから。水の泡が弾ける音、自分の呼吸音、心臓音以外の余計な音が強制的に排除される。
結局、早く潜りに行きたいなという話。