【バレあり】真剣乱舞祭2022・初日配信~東京心覚の舟

真剣乱舞祭2022。無事開幕おめでとうございます!!
いや本当に、このご時世無事に幕が上がるだけでめでたい。そして現地に行けなくても配信で観覧できて有難い限り。

* *
※※以下、ネタバレありますのでご自衛下さい。
相変わらず考察とかはしない、個人的に感じた事極振りの感想ですが、とにかく「心覚!」「心覚また見たくなった!」という初見でした。
(東京心覚と心覚の将門公が大好きすぎるので仕方ない)
※以下、fusetterで呟いたものに加筆修正してあります。

水面に映るのは、それをのぞき込む人自身の世界である。


のっけから面の女の子が登場し、水心子が登場し、心覚の地続き……!という前振りから祭りが始まったわけですが、神事っぽい不穏な曲から祭2018の繰り返しのように東西の祭りが再び演じられ、なぜかぶち込まれる琉球に困惑。─── いや、舟を引っ張る男の人の出で立ちがどうも和風じゃないというか、男士の衣装も微妙に海の向こう側の風味がしなくもなかったですよね?(民族衣装詳しくないんであれですが、純和風ではないように感じました。ここは博識な審神者がたの考察を楽しみにしてます)

まあ、その後はいつもの情緒のアップダウンが激しいいつもの祭りで、存分に暖められたり冷やされたり濡らされたり、心のグッピーが無事何匹も死亡しましたがそれはさておき、
見終わって一番心に残ったのがラストの水心子と将門公との問答でした。


※問答の前に、将門公が己自身の分身、あれは神である将門公の荒御霊(あるいは祟り神である分身というか)と戦い、「調伏」するのではなく「統合」するように一つになるシーンがありました。
あそこで、この祭りは将門公を鎮める祭りでもあるかな……と感じたのですがその先に続く水心子との会話で「ああ……!」となったので今回はそちらを書きます。


「我をどう見た?」と将門公に問われた水心子が「神と思えば神」答えたあの言葉。あれこそが、今回の祭りというか、東京心覚が見せたかった世界なんじゃないかな……とそう感じたんですよ。

将門公「貴様は我をどう見た」「怨霊か神かそれとも人か」

水心子「水面に映る姿は、怨霊と思わば怨霊、神と思わば神、人と思わば人なり。我もまた然り

我もまた然り……!! 

大乗仏教的な色即是空でも良いんですけど、
「世界の真実とはそれを見た人がどう思うか感じたかだけである」
(=万人に共通の真実などどこにも存在していない)っていう事だと思うんですよね。
将門公を神だと思う人が見れば彼は神だし、彼を歴史の中で悲しい役割を背負わされた人だと思えば不遇な人だし、恨みを抱いて怨霊になった存在だと思えば怨霊になる。その諸相のどれもが真実でどれもが幻であって実体は無い。

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神がいるのではなく、ある存在を神だと見る(感じる)人がいるだけ。
モノがあるのではなく、モノを見ている人(の受想行識)が存在するだけ。
歴史と言う真実があるのではなく、こういう歴史があったと決めたい人がいるだけ。(※人が生まれて死んだという事実があるだけで、歴史は実存とは言えない)
正義も悪も、正史も偽史も、嘘も真も、一つの事象の表と裏でしかない。

どれもが真実でどれもが幻であるならば、その真偽を問う事に意味は無い。
なぜなら「その存在と出会って自分が何を感じたのか」のみが「自分にとっての真実」であるから。そしてその「自分にとっての真実」は、人の(感性の)数だけ無限に存在している。

「水面に……」って部分で一瞬『江水散花雪』を思い出しましたけどね。あの山姥切国広だってそうなんですよ。彼が水面にどんな誰を見ていたとしても、それは「山姥切国広という世界を通した」誰かなんです。映し出された像に真実があると思って覗き込み続ける限り、己の真にはたどり着けない。
「我もまた然り」って、山姥切国広への答えでもあったのかな……あるいは刀剣男士という存在自体への答え……。

この考え方(世界に実体は無い)というか世界観って、実はとっても日本的な世界観だと思うし、また、刀ミュの根底に流れているなあとずっと思ってるんですよ(※超個人的な主観)
そしてその世界観を極限まで表現しようとしたのが心覚だとも。

だからこそ、心覚では明確な「答え」が無かった。
パライソのように「正しい歴史」も江水散花雪のように「間違った歴史」も描かれなかった。描かれたのは、ひたすら大河の流れのなかで自分だけの「花」をめでる「命の在り方」だけだった。歌わずにいられない歌が紡がれる様だった。


心覚で歌われた歌を、再び誰かが歌い継いでいく。


聖と邪、善と悪、真実と虚構、神と怨霊、正義と悪。
その二極が幻であるなら、生命(魂)にとっての真実は「揺り動かされた心・感情・感覚」の中にしかない。
その「揺れ動いた己の心」だけに集中して生きていく事こそが、与えられた命を精いっぱい生きるって事で、そうして生きる時、人は歌を歌わずにいられないでしょ、歴史の真実がどうあれ、そこで歌われた歌の心だけは真実でしょ、……って心覚は描いてたと思うんですよ。

だから、歌う心(今この瞬間震え揺らぐ心)を大切にしようよ。
正義か悪かというジャッジではなく、揺れ動いて誰かに想いを伝えずにいられない、その自分の心を大切にして生きようよ。過去から連綿と続く無数の人の「歌」が今を作っていて、この先へと繋がっていくんだよ。

”歌わずにいられない”の「歌」は、現実には人によって千差万別で、絵を描く・詩を書く・歌を歌う・あるいは小説を書くなどの創作かもしれないし、あるいは誰かとひたすら語りあう事かもしれない。あるいは、江戸城の礎を作った人々のように自分に与えられた仕事を誠実にこなすという行動になるかもしれない。それらをひっくるめて東京心覚では「歌う」と表現してた。

その心覚のメッセージを、将門公と水心子が改めて伝えてくれたなあ……と感じたんですがこれは心覚オタクの偏りすぎな感動ですな。
もうちょっと冷静に見ると、心覚で封じられるべき怨霊として語られた将門公が、鎮められるべき神として語りなおされたなあと感じました。そういう意味でも将門公は統合されたね……。

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以上、途中かららぶフェスの感想と言うより心覚の萌え語りになりましたが、真剣乱舞祭初日の感想です。

脚本の方の意図は全然分からないけどね、個人的には心覚の供養でした。「あの子」が出て来てくれたのも嬉しかったし、何より心覚で太刀の一振りで心を鷲掴みにしてくれた将門公に再会できたのがもう幸せ。
正直、極めた榎本さんが凄すぎて食われちゃった感はありましたが。
なんであのお方はあそこまで人間離れした存在になってしまったのでしょう……いや、格好良かったけど。完全に榎本(極)でしたよね?

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