「江水散花雪」初日配信感想②~南泉一文字の成長
江水散花雪、感想(という名の一人語り)
今回は、fusetterに上げた南泉一文字の解釈を転載しておきます。
相変わらずバレに配慮していませんので、自衛お願いします。
感想をまとめながら改めて感じたんですが、江水はセリフで語らせずに行間を読ませる場面が沢山あって、これって演じるの難しいだろうなあ、と。
私は歴史的知識のバックボーンが無いから、他の古参審神者さんとか歴史クラスタの皆さんのように、刀たちの来歴からキャラの心情を推察する事という観方はできないんですよ。
演じられている物語の言葉と行動を、文字通りそのまま(キャラの設定をベースにせず)受け取ってます。それでもこんな長文を書くほど感動できる。
それは逆から言うとキャラクターや原作の設定によらず物語が成立しているという事で、見えない部分の背景、心情とか心理的な葛藤がしっかり作りこまれてるって事なんですよね……。いやあ、こういうお話書く人って人生何度目なんでしょうねえ?
南泉一文字~自我を確立する過程で支えとなる、他者からの愛情。
(以下はfusetterへの投稿に若干加筆修正しております)
江水の南泉くんの解釈について。
彼はあの任務を通して刀剣男士としての自我を確立する一歩を踏み出した。それが自分自身の本体(刀剣)に対する扱いに表れてたよねって感じたんです。後半へ向けて振舞いが変わってるの
彼は何というか、刀剣男士らしくない男士として登場しますよね。
他の男士は肌身離さず持っている「本体(の刀剣)」を、彼はすぐぽいっと放り出しちゃう。
その描写がすごく気になって、どう解釈したらいいのか前半モヤモヤしながら観てました。え、なんなのこの刀は、ぽいぽい自分自身である刀剣を放っちゃうの?って。
だけどね、後半にむけてだんだんとその取扱いが変わってくるんです。
狂った世界で、狂ってしまった井伊直弼に南泉自身が止めを刺した後。
彼は自分自身をぎゅっと掲げて、じっと見つめる場面が訪れます。
あそこを見て、あの本体は「彼自身の刀剣男士としてのアイデンティティの象徴」だったんだなと思い至りました。
前半のゆるゆるで男士らしくない場面では、彼はまだ刀剣男士としての自我を確立出来てない。「己は何者なのか」という問いさえも持っていないんです。人間で言えば幼稚園児レベル。
けれど任務を通して「愛されること、大切にされること」を知り、「大切な人を守りたいという想い」が自分の中に生まれた。そして狂っていく世界の中で、人としての尊厳を失った大切な人を目の当たりにした。
「自分にとって“大切な人を大切にする行動”とは何か」という問いと出会った。
ここでようやく「自分は刀剣男士であり」「刀剣男子として間違った歴史を正す」んだという自覚を得る事となったんだなあ、と感じたんです。
だから、前半のぽやぽやの猫まっしぐらな南泉はあれで良いんだって。
(まあ、キャラのファンからするとそんな言動しねえよってムカつく部分がある事は否めない)
*
あの終盤の混乱の中で南泉がぶちあたった問い。
自分をかわいがってくれた優しいおっさんが人格を失い、人あらざる者になってしまった。当然、大切な人だからその命を奪いたくない。
けれどそのまま放置しては仲間が襲われてしまう。自分も襲われてしまう。
あるいは放置して逃げたとしてもいずれ争いの中で命を落とすだろう。
それで良いのか?
人としての尊厳を失い狂った存在になってしまったおっさんははたして、自分が愛したおっさんと同じ存在であると言えるのか?
そこでどの選択肢を選ぶのか。
殺すのか、逃げ出すのか、他の仲間に殺してもらうのか。どうする?
どれを選んでも良いんですよ。どれも正解なんです。
元の主を斬れなかった兼さんも、太田道灌の人となりを知ったうえで斬った豊前も、どちらも間違いじゃないんです。
「その選択こそが自分自身だ」というだけなんです。
そして、「大切な相手に対してどうふるまうのか」って所にこそ、その人の本質って現れるんです。この決断の中で、南泉という精神が立ち上がったんです。
南泉はあの場面に至って、今まででずっと粗雑に扱っていた自分自身を見つめ直した。刀剣男士として生きる覚悟を決めた。
そしてここが大事なんですが、その覚悟を支えたのは、存分に愛して可愛がってくれた井伊のおっさんとの記憶なんですよ。
親から愛された記憶が確かであるほど、人が生きる事への信頼を得る事ができるように、おっさんから愛された経験が南泉に自立への力を与えたんです。
(前半の彼の無知さは、赤子が与えられる快ちよさだけを求めている状態だと私は感じました。そこで十分に愛情を与えられ、人と関わる喜びとか自分が愛されるに足る存在だという安心を知ったからこそ、その先で一人で立つ事が出来るんですよね。
幼児期に心理的安全を得たかどうかが、その後の自立の過程に大きく影響を与えるというやつです)
そういう視点で前半をもう一度見なおすと、本当にあの二人の時間が尊くて泣ける。
「正しい歴史」を聞いた後の彦根藩邸では、それ以前と表情や振る舞いが変わってきてる事も分かると思います。井伊の顔をじっと見つめてたり、刀を手放さくなっていたり。彼の中にある「想いの質」が明らかに変わっていて、それが少しずつ表面に出てきている。
そして彼にとっての最大の山場。世界が放棄され、狂ってしまったおっさんと対峙せざるを得なかったあの時。
もしおっさんとの幸せな時間が無かったら、彼はたぶん迷わなかったでしょう。自分が生き延びるために誰であろうとバッサバッサ切り捨て、とっととあの世界から逃げ出してたんじゃないかな。そんで、まんばちゃんを迎えに一緒に戻るって事も多分しなかったと思うんです。
だけど他者という存在の愛おしさ、大切さを知った南泉は、仲間へもその眼差しを向け始めた。自分以外の他者にも「大切なものを失う痛み」があると知った。
だからこそ、正史で崩れ落ちた小竜にさっと手を差し伸べる事が自然とできた。(正史をもう一度見に行った彼は、更に佇まいも表情も違ってたよね? 幻覚?)この成長……。男子三日会わざれば刮目して見よですよ。
井伊に花を供えた場面から小竜に手を差し伸べるあの一連のシーンに、今回のの任務を通じた彼の心の成長がぎゅぎゅぎゅっと濃縮されてて胸熱でした。
ほんとにほんとに、あの時間軸で井伊のおっさんと過ごした時間は、南泉のこの先の刀剣男士としての人生(刀生?)にとって大切な宝物だったんだなあって思います。
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(追記)
私は刀の来歴については全然詳しく無いし、歴史も覚えられない人なんですが、南泉は「大切なものを失う」経験を経てなくて、だからこそ刀剣男士としての自我も薄かったんじゃないかな、なんて想像もしました。前半の彼が、うっかりすると猫の呪いの逸話に引っ張られてしまうように。
だけどあの任務を通して、自分も何かを守るための「刀剣」なのだと自覚をしたんですよね。あの任務から帰った彼は、もうきっと本体を粗末に扱ったりしないって、そう思うんです。
そして改めて「猫の呪いという逸話を持った存在である自分」と共に生き始めるんだと、そんな風に感じた次第です。(ミュ的にはこっから先が地獄だとも言う)
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余談ですが、刀剣乱舞の「本丸で主である審神者や仲間たちと共に、人と同じ生活を営ませる」というシステム自体が、想念だけだった刀剣男士たちに肉体(色)を与え、十二縁起の中に叩き込むちゅう鬼のような仕組みでもあったりするんですよね……。
でもそこがエモい。生きる事の喜びは苦悩と表裏一体っていう部分をまざまざ描いてくれる刀ミュが好きです。