「江水散花雪」大千穐楽感想 ~山姥切国広の時間は動き出したのか…な……。

江水散花雪、大千穐楽おめでとうございます。

途中いろいろ心配な事がありましたが、それらを乗り越えて無事に千穐楽を迎えられたカンパニーの皆様に心から敬意を表します。
最後のカテコで兼さんが思わず吐露された言葉以上に、中にいた人は大変なプレッシャーや苦しみがあったのだろうけれど、それらを乗り越えた姿こそが、観客である私たちに勇気を与えてくれたと感謝しかありません。

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小竜君がカテコで言った「こういう時って言葉は無力だよね」というあの言葉の中に、江水散花雪という物語がぎゅっと凝縮されていて、本当に、なんて美しい物語だったんだろうと未だに余韻に浸っています。

こういう時って言葉は無力だよね。
この溢れる思いを全てこぼさずに君に伝えられる自信がない。
主、見ていてくれ。これからの俺を。
この溢れる気持ちは、主への想いは、刀剣男士として、そして俺らしく、戦いの中で表現していくよ。……ありがとう。

本当に本当に、私にとって江水で何が一番響いたかって、言葉として語られない想いを、丁寧に丁寧にすくいとって、舞台の上で表現してくれた事なんですよ。


 普段、日常を生きていて、言えない事や言葉にできない事ってたくさんあるじゃないですか。
 でも、世の風潮としては「言わない方が悪い」とか「泣かないのは悲しんでないからなんだね」みたいに、上っ面の感情表現が上手な事がコミュニケーション上手で、自分の感情を周りに分かりやすく表現できないのはコミュ障だみたいな暴論が幅を利かせててさ、そんな訳ないじゃんって良く思うんですよ。

 悲しい時に周りに心配させないように笑って見せるとか、あるいは悲しすぎてそれを表に出してしまったら自分が崩れてしまうからあえて蓋をするとか、そんなの一杯あるじゃないですか。


 そこをね、言葉にしなきゃ分からないよって無理やり相手から引き出そうとするのではなく、自分の気持ちを分かれって無理に押し付けるのでもなく、「相手の心の内にも自分と同じように言葉にならない想いがあるのだ」と想像しながら、自分のできる範囲の最善を尽くして、相手と同じ時間を分かち合う。
 そんな、”お互いの選択を許しあいながら、共にある在り方”を江水は見せてくれたなあって思うんです。



今回の小竜君であれば、今の悲しさや悔しさを全部言葉にしてぶちまける事は、長い目で見て彼の救いにはならないと思うんです。
その悔しさを、悲しさを、今から先に選べる選択肢に全部注いで生きていく。その先にこそ救いがあるのだし、その生き様こそが彼の人生として後に語られるものになっていくんじゃないでしょうか。

だから私的にはね、あのカテコの言葉に江水の全部が詰まってた! こちらこそありがとうだよ小竜君! 君が君でいてくれて良かったと心から思ったよ!

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 あとはさ、話す前から涙一杯の南泉のサムズアップとかさあ、もう。兼さんも顔のラインが変わるほど痩せてなかった? 
 本当に本当にみんな大変な中頑張って完走してくれてありがとう。みんなで美味しいものたらふく食べて、ゆっくりお手入れしてね。

 そしていつか叶うなら、ベストのコンディションで再演をして欲しいと願っています。あのメンバーのベストのパフォーマンスを浴びたい。多分その後一月くらいは使い物にならないだろうけど。
(新米審神者としては、ついでにパライソや心覚も再演して欲しい。なにとぞご検討ください中の方!)

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 それにしても、です。観劇と無縁で生きてきた私にとっては初演と千穐楽を両方見るという体験が初めてで、こんなにも演技が深まるのかと驚きました。各所各所で細かな動きが変わってて、表情が変わっていて、初演では掴めなかったセリフもすっと入ってくるようになってた。
 こういう変化を見守る楽しみって言うのもあるんですね。
奥深いな、演劇の世界。

そんな感慨の中から言葉に出来そうなことだけ書いておきます。その他の感動については、情緒ぐちゃぐちゃで今は言葉になりそうにないので、短歌とか詩で投げる所存。


小竜君の「たくさんいる主の一人だよ」が優しく奥深く。

 劇中、小竜君は二回「たくさんいた主の一人だよ」って言葉を口にします。このセリフの深まりが、小竜景光という男士の心の機微を端的に表しているんですが、が。初演の際、正史のシーンでの言い方について違和感が若干ありました。

 声を張り上げるような、自分の弱さを突っぱねるような言い方で、そういう表現も無くはないんだけど……と。
 まあ舞台だし、大げさになっちゃうのは仕方ないのかな……でも……悲しいけれどそれを表せない時って、ああいう言い方にならないよね……と、ちょっともにょっとしたんですよ。

でも千穐楽の小竜君は、微笑むような声で言ったんです。「何てことないよ」って。残念ながら舞台の上にいたのは影小竜さんだったので、実際の表情を見る事は出来なかったけど、あの声は確かに微笑んでいた(と私は感じた)。
うん。
本当に大切なものを失った時って、人って泣けなかったりするんですよ。


「泣くことも出来ないほど悲しい」とき、人は笑うんです(経験者は語る)。笑顔で心の底に悲しみをしまって、その痛みを抱きしめて歩いて行くんです。
 その笑うしかない悲しみと、進もうとする心の強さとを表現してくれる言い方だった。私的に100点満点ど真ん中になってました。

 あの表現でこそ、小竜が心の奥底で元の主である井伊直弼に深い敬愛を抱いていた事や、その喪失に深く傷ついている事が伝わるし、その痛みを抱いて刀剣男士として仲間と共に自分の使命を生きて行くんだという決意が胸に迫って来るんです。
 言わぬが花、語られぬ花の想いを丁寧にすくいあげた、江水らしい、最高に痛くて美しいシーンを千穐楽で見せていただけた。ブラボー。

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もうね、アニメでも映画でも小説でも、登場人物に泣き叫んで悲しみを表現させるって言う安直な演出をする人は見習ってください(何様)。

 あとな、葬式で泣いてないからあいつは悲しんで無いとか馬鹿な事を言うな。喪失が大きすぎて泣けないって事もあんだよ。あとは、お前に悲しみを見せても何も変わらないから見せてないとか、お前には心配かけたくないから笑って見せてるとかかもしんねえ。そいつの心の中に何があるのかは、外側からじゃわかんないだよ。
 自分の期待する感情表現を相手がしてくれないからって、相手の事を決めつけて否定するな。「他人の気持ちを本当に理解する事はできない」んだよ人間はエスパーじゃないんだから。 おっといけない、日ごろの本音が。


山姥切国広の「どいつもこいつも」


あとね、ラストの山姥切国広の「……どいつもこいつも」のセリフ。
これ、初演の時より明るくなってましたよね?

初演配信では見えなかった山姥切国広の表情がアップで抜かれていたから……とも思うんですが、やっぱり言い方が違ってたと言うか、ちょっと嬉しそうですらなかった? 最後笑ったよね? 初演の時はそうじゃ無かったよね?


 初演配信の時も、カツアゲシーンで「山姥切国広は許されてる事を受け入れ始めてるんじゃないのか……?」と、うっすら感じてはいたんですが、その感じがよりいっそう強まった気がするんです。
その事が希望を感じられる読後感に繋がったというか……。
 そう、確かに同じストーリーだったんだけど、大千穐楽を観終えた後のそのしんどさは前向きなしんどさだったんですよ。それはやっぱり、ラストの山姥切国広の表現が違っていたからってのが大きかったのではないかと。


 以前の記事で山姥切国広をどうしたら救えるのか、グダグダ自分の心中を吐露したことがあるんですが(以下の記事の後半)。
 これを書いたのって、初演の時のラストで山姥切の心中が今一つ読めなかったってのもあったんですよね。彼は許されたのかどうなのかって点で。

だけど、千穐楽の山姥切国広は、前を向いて歩きだそうとしていたよね。そう思えるような笑顔と「どいつもこいつも」だったよね?

* *

罪を抱え込んでしまった人が歩き出す時って、自分を責めて責めて責めて、他人からも責められることを望んで、それでも生きようとしてしまう自分と向き合った先にあるんだと、私は思うんですよね……。


重い罪を犯した自分なんて、死んでしまえばいいと思いながらも、死ねない自分。
罪人なのに、お腹がすいて、誰かのつまらない冗談に笑いたくなって、差し出された手をつい取ってしまう自分。
罪人なのに、差し出された優しさについ嬉しくなってしまう、世界の美しさに思わず感動してしまう、浅ましい自分。

そんな浅ましい自分を受け入れて、罪を犯した苦しさも認めて、そんな自分を生かしている世界を許して、それからなんです。
そこを越えたんじゃないか、あのまんばちゃんは。

* *

(ここからは、あくまでもあのシーンを私なりに咀嚼して読解した物語です。脚本の意図は全然違うかもしれませんので悪しからず!)

 放棄された世界に一人残ったあの瞬間、何て言うか、あそこで山姥切国広は確かに一瞬、折れる事で許されようとしてはいるんです。
 でも、心の底で生きたいって思ったんじゃないのかなあ。あるいは、生きぬこうとしてしまう自分、最後の最後まで戦おうとしてしまう自分を見つけたんじゃないのか。

「絶命の声が産声に似ている」のは、それが思考とか感情を全部取り払った根源的な場所にある、「生きたい」という命の叫びだから。


 山姥切は放棄された世界での命のギリギリのやり取りの中で、その叫びを自分の内側にも聞いた。聞いてしまった。そして、そんな自分を認めた上で力尽きるまで戦い抜いて、ようやく「ここで折れるのならそれも自分の運命だ」と受け入れた。
 この“受け入れた”は、「俺は罪人だから死んで当然」という投げやりな諦念とは違うんですよ。「生かされるのも生かされないのも、それが自分に与えられた運命なら受け入れて、与えられた本能に従って命ある限り生きぬく」っていう積極的な諦念なんですよ。


 死ぬ事も生きる事も運命の手の上にあって、自分にはどうする事もできない。ならば命ある限り生きて、生き抜いて、今できる事をし続けるしかない。死ぬべき時が来るまで生きる、それこそが贖罪なんだっていう、そういう覚悟とも言えます。彼はその覚悟へたどり着いた。
 じゃなかったらね、戻ってきた大包平たちの元へあんな風に戻ってはいかない。もっと拗ねた反応をして、仲間たちを傷つけたと思う。あんな心地の良い終幕にはなってなかったと思う。

* *

……まあね、あのシーンの読み方として、もう一つ「自分を許して受け入れてくれる仲間がいるから、その人たちの為に自分を責める事はやめて前を向く」っていう、少年漫画的な分かりやすい道筋があるのも分かっています。
 大衆にはこっちの文脈のほうが受けるでしょうし、共感もされるだろうなとは思いますよ。実際、前者の諦念だって隣にいる人の存在が必要であったりします。

 だがしかし。あんな脚本を書く人がそんな薄っぺらい許しを選ぶかってのが疑問。あとはまあ、完全に個人的な好みとして、前者の物語を私は選ぶ。
山姥切国広は、許されてしまう自分を許した。自分を許してしまう世界を許した。それによって、彼の中で止まって澱んでいた水が流れ出した。



江水散花雪は、誤った選択の末に時を奪われ澱んで腐りおちてしまった世界の物語であったかもしれない。正しい歴史とは何かを残酷に描いたのかもしれない。

でも少し角度を変えてみると、そんな澱んで腐って理性を失ってもなお生き足掻く命の物語でもあって(刀を求めた以蔵とか、正しい時の流れを求めて出口へ殺到する人々とか)
……それは、山姥切国広が自らの心を凍らせて腐り落ちようとしてもなお生き抜いてしまう、戦い抜こうとしてしまう己を見出す物語でもあったなあと思うのです。

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……ふう。
ここまで書いて、ようやく心が少し落ち着きました。もう配信終わっちゃうね。またパライソの時みたいに「こうすい……」って呻くゾンビになるんだ私は。


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