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新型コロナウイルス感染症と人類との戦いは、愛の戦いかもしれないと思った話

初めてnoteを書く。

自己紹介ややりたいことが初めての記事にはいいよと言われるのだけれど、突拍子もなく書きしたためたいことが出来てしまったので、それを書くことにする。私らしくていいと思う。

今回は「愛」と「新型コロナウイルス感染症」について気づいたことを記そうと思う。

「愛」とは何か

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私は(株)CRAZYという会社に属している。「愛」を真ん中に置いている組織だ。なんじゃそりゃ、と思う人がほとんどだと思うが、そういうことだ。笑 気になる人は、コーポレートサイトを見てみてほしい。なんとなく輪郭を掴んでもらえる(はず)だろう。そんな所以あって、「愛」について考えることが日常に散らばっている。

愛には色んな側面があるが、愛とは何かに対する一つの解は、「自分の範囲が広がること」だと個人的に考えている。自分という感覚範囲が個人から家族、職場、社会、国家、世界、地球、宇宙と広がっていく、その行為、流れそのものが愛であると、私はそう思っている。

愛には想像と思考がそばにある。なぜなら、それは目に見えないから。

家族を想って、その人のことを想像して喜んでくれそうなものを考えて贈る。大切な友人や恋人を想って、相手の状態を想像して元気になれそうな文章を考えて送る。顧客の生活を想像して役に立ちそうなものを考えてつくる。顔の見えぬ誰かの十分でない生活を想像して憂い、できることを考えて動く。私たちの生活の土台となる地球の状況を知り、想像して、自然のために出来ることを考えてアクションする。全て愛だ。こうやって、個人という範囲を超えて自分が広がっていくこと、それこそが「愛」だと思う。

そんなことを日々考えている時にやってきたのが、新型コロナウイルス感染症だ。

私たちは結婚式事業を行っている。ご周知の通り、この状況での結婚式というイベントには、おふたりの苦渋の決断が付きまとっている。悔しい。日々悔しい。結婚式は「愛」そのものなのに(これについてはまたゆっくり記したいと思う)、それが満たされる機会に、苦渋という言葉がつきまとうなんて。

そんな時に、新型コロナウイルス感染症について思ったこと。

苦渋の決断を迫っているウイルスは、人々の命や心身の健康を脅かすウイルスは、私にとって恨めしい存在でしかなかった。だけど、気づいたことがある。新型コロナウイルス感染症と人類の戦いは、愛の戦いかもしれない、と。


ウイルスは目に見えない。潜伏期間が長い。無症状の人もいる。今すぐ科学的に打てる、抜本的な解決策はまだ無さそう。県境も国境も存在しない。「人間」という生き物が存在している限り、いつそれが誰から誰へ感染するか全く分からない。そのセカイには地位も肩書も、分類も存在しない。

そんなウイルスの感染拡大を防ぐために世界中で動きが取られている。専門家や医療機関を始めとする多くの人たちが、最前線で心と力を尽くしてくれている。

日本から見ると、「中国」という海外で始まった感染症が、自国にもやってきて広がりをみせている。地方のある県から見ると、国内では「東京都」で広がり始めた感染症が、自分の県にも来て広がっている。もっというと、遠くの知らない誰かが感染したそれが、さらに知らない誰かを媒介し続けて、いつの間にか自分の近くの人に、そして自分自身にまで近づいて来ている。

普段は存在してい(るかのように見え)た、誰か・どこかとの境界線が、新型コロナウイルス感染症においては薄くなっているのだ。


外出自粛を。時差出勤を。リモートワークを。ソーシャルディスタンスを。都内から地方への帰省は控えよう。色んな声が聞こえてくる。色んな意見がある。

だけど結局どれを取ってもそれは、一個人が自分自身という範囲を超えて、大切な人たちを、大切な人の大切な人たちを、未だ知らない誰かを、不幸にしないためでしかない。たったそれだけに帰結している。

自分自身という個人から、大切な人たち、大切な人の大切な人たち、未だ知らない誰かと広がっていく範囲に、どれだけの想像力を働かせて、思考して、自分自身が今ここでどうするかを決められるかどうか。それがこの戦いを乗り越えるためには必要なのだと思う。乱暴に言いきってしまえば、ただそれだけなのだ。そして、それこそが愛なのだ。


ユヴァル・ノア・ハラリが言うように、お金も国家も企業も虚構でしかない。けれど、その虚構を守るために命を落とすのは生物である私たち人間だ。虚構はどうなろうと痛みも辛さも感じない。痛いのも辛いのもそれが有るセカイで生きている私たち生き物だ。

何のために生きるのか。何を信じて生きるのか。

いま私たちは、愛における進化を問われているのだと、この日々を過ごしながら思う。


ありがとうございます^^