私の原風景
私の原風景は、両親が阿佐ヶ谷で和菓子屋を営んでいた阿佐ヶ谷パール商店街である。父が人形焼きや煎餅を焼き、母が店番をする。一年365日、一日も休まずにお店を開けている。そんな年中無休のお店の子供達を、おもちゃ屋さんが海水浴に連れて行ってくれる。お蕎麦屋さんが、東京湾にハゼ釣りに連れて行ってくれる。戦争で左足を無くした自転車屋さんが、上野動物園や後楽園木下大サーカスに連れて行ってくれる。
「今日はトマトと白菜が安いよ」というだみ声、「さあ、新鮮なバナナが入ったよ」(当時バナナは高級品)。魚屋の見事な包丁捌き、焼鳥屋と鰻屋から漂う白煙、時々チンドン屋が練り歩き、年に数回来る一瞬で血を止めるガマの油売り(ハブに噛ませてガマの油で治療する芸はいつも見せなかった)、紙芝居屋、粘土の型屋、飴切屋などに夢中になった。
毎週金曜日夜八時に近所の人達がお店を開けたまま、力道山とデストロイヤーの試合を見に我が家に集まる。商店街に人はいない。子供たちはガラガラのお風呂屋さんで水泳をする。家に帰ると母が「まだ早い、まだ早い」と叫び、「いやチョップが効いているよ」と八百屋。「あっ、タイツから何か凶器を出した」と果物屋。「だから、もっと痛めつけろって言ったろ」と母。
父が他界し車いすになった母が高齢者介護施設に入った。ベッドの脇には孫達の写真より、当時の写真がたくさん貼ってある。母の昔話の多くは阿佐ヶ谷時代である。
「あそこの奥さんが店に買いに来た時、ちょうどお前が学校から帰ってきてな。その子は、お宅のお子さんかって聞くんだよ。ええ、うちの息子です」って答えると、「玄関でベルが鳴るから外に出ると、いつもあの子が走って逃げるんですよ」。
完璧に成功していたと思っていた「ベル鳴らし」(現代用語でピンポンダッシュ)の犯人は、見破られていたのか。母が死ぬ前に息子に話しておきたかった事実を知った。