幸せの靴屋(短編)(2379文字)

 アリーチェのお店はフィレンツェの東部に位置する細い路地裏に建っていた。「幸せの靴屋」と書かれた木製の看板が控えめに掲げられたそのお店は、来店の一ヶ月前までに予約の必要があり、飛び込みの客は受け付けていなかった。それゆえ、人通りの多いメインストリートに店を構える必要はなかったのだ。その日、お昼の少し前に出勤をしたアリーチェは、コーヒーを淹れながら作業台に置かれた予約帳を確認していた。今日の予約客は隣町に住む二十代の女性だった。その女性は、アリーチェがランチを食べ終え、作業台に革のサンプルを並べていた頃に店にやって来た。
「こんにちは、エレナ。さあ、こちらに座って。私の店のことは知っている? あなたにぴったりの、世界に一つだけの靴を作るわ。足型を取って、足の高さと長さと幅、アーチの具合や指の形も見させてもらうわ。ヒールの高さや素材については一緒に考えましょう。じゃあ、先ずはこの測量台の上に足を置いて」
 そう言ってアリーチェがエレナの足元に測量台を持っていくと、椅子に腰掛けたエレナは少しまごついた態度を見せた。
「実は、靴を作ってほしいのは私じゃなくて、このお腹の中の子なの」
 エレナはワンピースの上から、ふっくらと突き出たお腹を撫でて見せる。
「それは困るわ。その人に合う完璧な靴を作ることが私の仕事なの。目の前にいない人の靴は作れない。その子が産まれてきてから、もう一度予約を入れてちょうだい」
 ムッとした口調で話すアリーチェに、エレナは食い下がった。お腹の子の足の大きさについては、エコーを撮った医師からメモを書いてもらってある。アーチや形状については、私の足を元にして、それを縮小して作ってほしい。ヒールは無しで、素材は白の、一番軽い革を使ってほしいと主張してきたのだ。更にエレナは、その靴を来週には仕上げて、この街の中央に建つ病院宛に送ってほしいとまで言ってのけた。普段なら、アリーチェの靴は測量から製作、納品まで一ヶ月はかかる。こんな我儘な客は受け入れられないと、アリーチェが店の扉を開けて退店を促すと、椅子に座ったまま、エレナは泣き出してしまった。どうしても来週この店の靴が必要なのだと、料金については通常の二倍の額を支払うからと、エレナは言った。
 実を言うなら、アリーチェは今手持ち無沙汰だった。前の客の靴が思ったよりも早く仕上がったので十分な休暇も取り終わっていたし、このエレナの予約以降は、しばらく予約も入っていないのだ。進行中の他の製作もないので、エレナの希望の靴を一週間で仕上げることも、スケジュール的に無理な話ではない。それに、倍の料金を支払うと言うのなら、寧ろ願ったり叶ったりな状況ですらあった。
 顰め面のまま扉をしめると、アリーチェは測量台の前で跪き、エレナに足を乗せるよう再度促す。小さな嗚咽を漏らし続けるエレナが控えめに足を乗せると、アリーチェは手際よく型取りを進めた。全ての測量と聞き取りを終えて台帳に記入すると、通常の料金の二倍の額を記載した請求書をエレナに提示した。目を腫らしたエレナはその料金をアリーチェに支払うと、俯きながら店をあとにした。

 一週間後、仕上がった靴は、とても小さな物だった。エレナが希望した革は重力を感じさせないものであり、放り投げたなら今にも飛んでいってしまいそうなほど軽い靴だった。アリーチェはそれを簡易な箱に入れ、指定された大通りの病院に宛てて送った。

 エレナが再びお店を訪れたのは、それから更に一週間後のことだった。出勤したアリーチェがコーヒーを飲みながら予約帳を確認していると、微かな軋み音と共に店の扉が開いて、ごめんなさい、今日は予約を取っていないんだけど、とエレナは言った。
「あら、エレナ。靴はご希望通り病院に届けたわ」
「ええ、靴は確かに病院で受け取ったわ。本当にありがとう。我儘を言ってごめんなさい。あなたが作った靴を履いた人はみんな幸せになれるというジンクスが有名だから、お腹の中の子に、誕生祝いでここの靴をあげたいと思って、予約を取っていたの。だけど、出産予定日を過ぎても、お腹の中の子は産まれてこなかった。来店の前の日、病院で検査を受けたら、お腹の子の心臓は動いてなかったの。残念だけど、死産になるから、来週手術をしなくてはいけないと医者から言われたわ。ここの予約はキャンセルしようかとも思ったの。でもやっぱり、あなたに靴を作ってもらいたかった。あの子が、天国でも幸せに暮らせるように。作ってもらった靴は、棺の中のあの子に履かせたわ。真っ白で天使の羽みたいに軽かった。あの靴なら、きっと、羽ばたくみたいに天国に上れたと思う。本当にありがとう。それじゃ、お邪魔してごめんなさい」
 エレナはそう言って踵を返そうとした。アリーチェは言葉を失った。なんて言ったら良いのかわからなかった。なんて言ったら良いのかわからないままエレナのことを呼び止めていた。
「待ってエレナ。その、なんていうか、私はもしかしたらあなたから少し多くお代をもらっている気がするの。あなたの足型はまだ私の台帳に残っているわ。その、迷惑じゃなかったら、あなたのための靴を作っても良いかしら?」
 エレナは扉に手をかけたまま、アリーチェを見つめた。そして、小さく微笑んで、ゆっくりと頷いた。
「こっちに来て。希望の革とヒールの高さを選んでちょうだい。仕上がりは一ヶ月後よ。それよりは早くならない。でも、あなたにとって最高の一足を作るわ。知ってるでしょ? 私の靴を履いた人はみんな幸せになれるというジンクスがあるの。今はまだ辛くても、その靴を履いて、少しずつで良いから前に進んでちょうだい。信じて。絶対に幸せになれるわ」
 そう言ってアリーチェはエレナの肩を抱いた。静かに流れたエレナの涙が、革のサンプル帳につっと滴った。

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