悲しんでいるあなたを愛する 7

 お飲み物はいかがしましょう、と問うボーイに対して、テーブルの下に隠したスマホでメールの確認をしながら、あ、シャンパンで、と返した。パソコンの方が絶対に見やすいであろう長文のメールと添付資料を一つの画面で交互に表示させていると、急に辺りが暗転し、パーティ会場の左袖に設置された階段の上部へとスポットライトが当たった。映画館の中で悪目立ちするようなブルーライトが光るスマホの画面を急いでオフにすると、スポットライトを浴び、スモークとともに現れた新郎新婦に視線を切り替える。招待客へと手を振りながらゆっくり階段を下りて来る二人に、転んだら面白いのに、そのおおよそスタイルと合っていないウエディングドレスの裾を踏んずけて転んでしまえ、と念を飛ばすも、願いは叶わず、馬子にも衣裳じゃないのかよと言いたくなるというか、プロのヘアメイクをもってしてもその程度か、という完成度の新郎新婦は嬉々とした様子で高砂へと着席した。あのウエディングドレスも、海外のモデルさんが着ている宣材の写真ではさぞかし美しいのだろうに、只の一般人が着たところで上部から圧縮プレスされたような型崩れ感が半端無いし、耳に着けている大ぶりのイヤリングも、存在感のある顔の大きさを更に強調させるだけで、美音の等身バランスはいつもより狂っているように感じた。そんな美音にお似合いな、という感じの旦那も、光沢のあるグレーのタキシードはただでさえパツパツなのに、光が反射してより身体が膨張しているように見える。あれだけ毎日惚気ていたんだから、夫はどんだけ良い男なんだよと思っていたけれど、きっと事前に写真を見せられていても、良い人そうだねという誉め言葉しか出てこないレベルのものだった。思い返せばうんざりする程聞かされた惚気も、凄く優しくてとか、こういう気遣いが出来る人なんですとか、やっぱりそういう「良い人」エピソードしかなくて、まあそういうとこしか自慢ポイントが無かったんだろうなと思うに至る。小野寺さんも早く彼氏見つけた方が良いですよ!雑誌なんて斜陽産業だし、いつまでもバリバリに働けるわけでもないし、女の幸せはやっぱ結婚ですよ!と美音からされたマウンティングに対し、今なら、こんな男としかセックス出来ずに一生を終えるくらいなら、生涯独身のまま、たまに買った男と遊んだりして、斜陽企業が潰れるまで社畜をやってる方が遥かに幸せだわと返すかもしれない。同じテーブルに座る支部長は美音とは業務上では殆ど関わりが無かったので、隣に座る松岡さんに、彼女はどんな子なんだと聞いていた。明るくて良い子ですよと、仕事が出来ない人を形容する隠語で返す松岡さんと、それは良い嫁さんになるなとラリーを続ける支部長の両方に吐き気がする。気も利かなくて、特筆すべき技能も無いけど、明るくて良い子なら良い嫁になるのか。じゃあもし私がびっくりする程仕事が出来なくて、特に何のコメントも出来ない程度の顔面だったとしても、明るくへらへらと無神経に過ごしていたならば、隣にいる松岡さんと三年もの間ずぶずぶの不倫関係を続ける事も無く、彼は奥さんを捨てて、私を「良い嫁」として迎えていたのだろうか。馬鹿な事を言わないでほしい。私と松岡さんの不倫が始まったのは、私が彼と組んでいくつもの企画を受け持ち、取材や出張へ一緒に出掛ける事が多くなったのがきっかけだ。私がびっくりする程仕事が出来なくて、特に何のコメントも出来ない程度の顔面で、明るくへらへらと無神経に過ごしていたならば、彼と深い付き合いになる事すら無かっただろう。小野寺は本当に自慢の部下だよ。美人で、仕事も出来て、他の部署からの評価も高い。俺の片腕として付いて来れるのはお前くらいだ。取材後に立ち寄ったラブホテルのベッドの上で、フェラをする私の髪を撫でながら彼は何度もそう言っていた。
「彼女、妊娠中なんだって?産休いつからだ?お前のとこももうすぐ産まれるんじゃなかったか。同じ編集部から同時期に二人抜けのは大変だろうけど、何だっけほら、イクメンとかそういうの。今は男も育休を取る時代だからな。仕方無いよな」
 支部長の言葉を聞いて、薄くて硬いステーキを親の仇かという勢いで切っていた手を止めた。目を見開いて松岡さんを見ると、眼球だけ一瞬こちらに向けてすぐに視線を支部長に戻し、ええ、うちは十月の予定なんですと松岡さんは答えた。十月の予定なんです?は?全然聞いてませんけど?は?お前、子供は要らない、あいつとはずっと仮面夫婦だからとか言ってませんでした?胸ぐらを掴んで問いただしたい気持ちを抑えながら、手に持っていたフォークとナイフを「下げてください」のマークにして皿に置いた。
「お前んとこ、ずっと不妊治療してたもんなあ。やっとできて俺も一安心だよ。不妊治療で有給取ってた分と育休分、また戻ってきたらバリバリと働いてくれよ。まあ、それまでに小野寺さんにポジションを奪われちゃうかもしれないけどな。小野寺さんは、直ぐに妊娠する予定とか無いもんね?」
 不躾な話題に、支部長の隣にいた先輩が、そういうのは個人のプライバシーとハラスメントの問題になりますよと、赤いマニキュアが塗られた人差し指で、口元で「シー」と合図した。
「二人抜けるのは確かに大変ですけど、ずっと松岡さんとペアを組んで頑張ってきた小野寺さんが、今はバリバリに回してくれてますもんね?」
 発言に裏がありそうな口調で先輩から話題を振られて、ギョッとしながら、ええ、いや、どうですかね、とぎこちない笑顔で返す事しか出来なかった。何だこれは。何の罰ゲームだ。三年間不倫していた直属の上司と、女の感でなんとなく私たちの不倫関係について気付いているのであろう同じ部の先輩と、何も知らないし、何も察しないし、何も考えていない支部長と同じテーブルって何なんだ。隣を見ると自分と同期の子が後輩たちと一緒のテーブルに座り、卓上のフォトプロップスを使って楽しげに写真を撮っている姿が目に入った。思わず「ハッ」と短い笑いが漏れる。私と同い年の同期や後輩達はお前にとっては同僚で、私は面倒臭いお局という振り分けなのか。シャンパンを煽って高砂を一瞥するといやらしい笑みで見下してくる美音と目が合った。実に馬鹿らしくて何とかしてここから抜け出せないものいかと考えあぐねていると、再び会場が暗転して静かなイントロが流れてきた。スポットライトが点灯し、高砂の隣に設置された小さなステージの中心で光を浴びて歌い始める亜希を見て、一瞬何が起こったのか理解が出来なかった。二週間前に、締め切り日ギリギリで環から音源が送られてきた時、松岡さんと二人でデモを確認した時、アクアス目黒の社長と広報に確認をしてもらった時、イベント用にバンドアレンジをしてもらった時、イベントのリハーサルの時、バースペースの音響確認の時、アクアスのリニューアルオープンの記事を書く為に一人で残業をしている時、この二週間で何度も何度も繰り返し聞いた曲だ。明日行われる、アクアス目黒のリニューアルオープンイベントで、一般に対して初めてお披露目となるインフィニティの新曲を、今、亜希が歌っている。人は、本当にびっくりした時は声が出ないものだと、この時初めて知った。ヒュっと息を飲んで、目を見開いたまま、暫くの間茫然としてしまった。数秒後に我に返って隣を見ると、同じタイミングで険しい顔つきの松岡さんがこちらに顔を向けた。何かを弁解するように、「私は関係していない。何も知らなかった」という意思表示で首を横に振ると、松岡さんは眉間を指でつまんで顔を伏せた。曲が終わり、司会者が、「新婦、美音様のご友人であり、今ネットでも話題沸騰のインフィニティよりお祝いのお歌でございました…」という説明が始まるのと同時に、松岡さんとアイコンタクトをして席を立った。会場の出口へと向かう途中に高砂を見やると、中座する私たちに対して不審そうな顔を見せる新郎と、片口を上げて笑う美音の姿が目に入り、怒りでさっき食べたステーキを吐き出しそうだった。あの場で、純白のドレスを鷲掴みにして、「てめぇ何してくれたんだよ」と美音を罵倒しないだけの冷静さを保てた自分に、逆に驚いていた。ロビーを抜けて人気(ひとけ)の無い庭園に出ると、ポケットを漁っても煙草が見つからない事で更に機嫌の悪さに拍車をかけた松岡さんに「それで?」と問われた。
「何これ。どういう事。どうするのこれ」
「知りませんよ。私だって今凄いパニックになってるんですから」
「音源はどういう風に管理していたの?岡田さんも自由に聞ける環境にあったわけ?」
「インフィニティから音源が届いた後、音源を聞いた事があるのは、アクアス目黒さんと、松岡さんと、私だけです。音源は私のパソコン上でパスをかけて保存していました。岡田さんはここ二週間、結婚式の準備をするという事で有給を取っていたし、それ以前も彼女がアクアス目黒さんの案件に深く関わる事なんて無かったから、彼女が職場で音源に触れる事は無かったはずです。というか、そんな事松岡さんだってよくわかってるでしょ」
 八つ当たりしないでよ、と私が感情的に吐き捨てると、松岡さんは険しい顔のままため息をつき、スマホを操作しながら庭園の奥へと消えて行った。丁寧に手入れされたバラが咲き誇る庭園に一人取り残されて、改めて理不尽な悪意に対しての怒りがこみ上げてくる。あのクソ女、わざとやりやがった。退出時にすれ違った時の美音のいやらしい笑みを思い出して、持っていたパーティーバックを思いっきり地面に叩きつけた。マグネット式の留め具が開いて中に入っていたスマホが滑り出てくる。しゃがんでスマホだけを取り上げると、ベンチに座ってLINEを開いた。
「後輩の披露宴の余興で、明日のイベント用の新曲を亜希さんが歌ってた」
「私、あの新曲はイベント用の書下ろし曲だから、イベントまでは絶対公開しないでって三人にも言ったよね?」
「本当信じられない。最悪過ぎる」
「あなたは知ってたの?」
「連絡して」
 2スクロールいっぱい分のLINEを環に送りつけたあと、何度トーク画面を開き直しても一向に既読にはならなかった。転がったままのバックを拾ってスマホを中に戻すと、ベンチに座り直し、直ぐ傍にある深紅のバラを見つめた。棘まで綺麗に手入れされたそのバラの一つを花軸から毟り取り、手の中で雑に握り潰してから捨ててみる。一つ、二つ、三つ、四つのバラをぐしゃぐしゃにして、五つ目に手をかけた時、奥から松岡さんが戻って来るのが見えた。
「アクアスの担当さんと連絡がついた。謝罪に行くぞ」
 不貞腐れた態度の私を見て、広報と連絡が取れた事で一度は落ち着いた様子だった松岡さんはまた少しムッとした表情を見せたけど、構ってられないという様子で庭園の門を出て行った。真っ赤に染まった手でバックのチェーンを掴むと不貞腐れた表情のまま松岡さんの後を追う。式場の出口で、スタッフに、急用の為二名帰宅する旨を伝えると、おしぼりを持ってきてもらい手を拭った。赤く染まっていくおしぼりを見て、スタッフは一瞬だけ怪訝そうな顔をした。お席にございます引き出物はいかがしましょうかと問われ、要らないです、両名分とも捨てておいてください、と答えた時にはあからさまに困った顔を見せたが、これ以上何も用はありませんという態度で、出口で待たせているタクシーへと小走りで向かった。

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