悲しんでいるあなたを愛する 9 終

 まともに寝る事も食事を摂る事もほとんど出来ないまま迎えた翌日に、通勤途中にあるレディースクリニックに寄ってアフターピルを処方してもらった。通常のピルと違い、アフターピルは病院で飲まされる事を、その時初めて知った。まあ、性行為後なるべく早く飲まなきゃいけないものだし、ネットで転売とかされても困るもんなとぼんやり考えながら、妊娠の心配があるなら三週間後に妊娠検査薬を使って検査をしてくださいという医師の説明を受ける。病院から出てタクシーを拾い、アクアス目黒までと告げるとそっと目を閉じた。落ち着いたらドラストで妊娠検査薬を買わないとな、と思う。三十半ばにもなって、出勤前にアフピルを処方してもらい、妊娠検査薬を使って不倫相手との子供を身籠っていないかを確認しなきゃいけないなんて滑稽だなと、自分で自分の事を本当にアホみたいに感じる。直ぐに嫌味の一つでも言ってやろうと会場で待ち構えていたアクアスの広報は、厚塗りのメイクでも隠し切れないゾンビ顔の私を見て一瞬たじろぎ、広栄社さんはこちらへ、と私を控えスペースへと案内した。先に来ていたユウジと亜希は、広報からの説明を聞いて初めてことの問題を認識したようで、私の姿を見つけると飛んできて謝罪を繰り返した。
「美音さんから、披露宴の余興で新曲を歌って欲しいと連絡が来て、私てっきり広栄社さんからのオッケーが出ているものなんだと…」
「本当にご迷惑をお掛けしました。これって契約違反になりますよね。どうしたら良いのか…」
 平謝りをする二人の後ろで、環はそっぽを向いて涼しい顔をしていた。アクアスさんから穏便に済ませるとのお言葉をいただいているので、今回に限り不問ですと伝えると、二人は胸を撫で下ろす様子を見せた。
 幸いにも、この案件の原稿は殆ど出来上がっていたので、あとはこのリニューアルオープンイベントの写真を組み込めば私の仕事は概ね終わる予定だった。来館客が次々と特設ステージの観客席に着席し、ステージの袖では発声練習をする亜希にユウジが水を渡していたりした。イベントの司会者がインフィニティのライブの始まりを告げると、観客からは歓声が上がり、無数のライトに引き寄せられるように亜希はステージへと飛び出して行った。亜希がステージに立ったのを確認して、舞台袖から観客席の斜め後ろに設置された関係者スペースへと移動した。ステージ上で「アクアトピア」を歌い始めた亜希の姿を、事前の打合せ通りにカメラマンが写真に収めていくのが見える。マイクを持つ亜希の左手の薬指に光る、大きなダイアモンドが付いた婚約指輪をフォトショップで消すべきか否か、広報に確認するのも億劫だし、松岡さんに判断を仰ぐのもアホらしかったので、とりあえずそのままにして校閲に流そうと思った。
 閉館の時間となり、館内に誰も人がいなくなると、ゲラを持って広報と館内を回り、原稿に大きな間違いや修正箇所が無い事を確認して改めて社長室へと向かった。社長席に座る代表と、その横に並ぶ広報に再度詫びを告げ、頭を下げると、まあまあと社長が制した。
「小野寺さんも、色々と大変でしたね。広栄社の松岡君とは付き合いも長いですから、今回の事はこちらも目を瞑ります。ただ松岡君、これから少し現場を離れるんだってね。これからも良い関係が築いていけるかは、小野寺さんの頑張り次第だからね」
 浮いたファンデでは隠し切れない、クマだらけの顔で精いっぱいの笑顔を作り、努めてまいりますので、これからもよろしくお願い申し上げます、と言い退室すると、軽く腰を引いてギリギリまで絞られた雑巾のようになった胃を庇いながらアクアス目黒をあとにした。閉館後もまだライトアップがされている入口のアーチに、環が寄りかかっているのが見える。私が近づくと悪びれる様子も無く、酷い顔ですねと言ってきた。
「誰のせいだと思ってんのよ。ていうかLINE返しなさいよ」
「危機管理能力の無い結江さんと、そのアホな後輩と、うちのアホなボーカルのせいでしょ。僕は関係無いですから。それよりお腹空きません?駅前の焼肉屋行きましょうよ」
 胸を小突く私の腕を掴んで、引きずるように環は歩き始めた。
 店に着くや、僕、適当に頼んじゃって良いですか、と言い、早々に店員を呼んで環は注文を始めた。チョレギサラダ、卵スープ、キムチ盛り合わせ、牛タン、カルビ、ハラミ、ミノ、ごはん普通盛りと大盛をそれぞれ一つずつ、それから生中を二つください、と言ってメニューを閉じる環をボーっとしながら眺めていた。ほどなくして私たちの目の前に運ばれてきたビールジョッキを一方的にぶつけきて乾杯すると、環は七割方を一気に飲み干した。結江さんは飲まないんですかという問いに、何かが弾けたようにジョッキを掴んで、こちらは全部を一気飲みした。ジョッキをテーブルに置いた手をそのまま揚げて店員を呼ぶと、生をもう一杯と告げる。いや、二杯で、と環が続けて、残りのビールを飲み干した。次々とテーブルに乗せられる料理を取り分けたり、肉を焼いては私の取皿に移したりして、環はもくもくと働いていた。私は黙って取り分けられたスープを飲んだり、肉を食べたり、ビールを煽ったりしていた。生を四杯、レモンサワーを一杯、ハイボールを一杯飲み終えた頃には注文した料理もあらかた片付き、昨日からろくに食べておらず空っぽだった胃が、若干胃もたれを起こしていた。それでも、何かデザートを頼みますかと問う環に、杏仁豆腐が食べたいと返事をする。環が頼んだプリンと私の杏仁豆腐と、緑茶の入った湯飲みが二つ届けられたあと、お互いからやっと小さな笑みがこぼれた。
「披露宴での事、スイマセンでした。大丈夫そうでしょうか」
「大丈夫だけど、大丈夫ではないだろうね。でももう良いよ。私も、もう知らない。アクアスは元々は松岡さんの顧客だしね。切れても松岡さんが困るだけだから」
「松岡さんに迷惑が掛かっても良いんですか」
「良いんじゃない。知らないよ、もう。ひとの事、都合良く動くダッチワイフとしか思っていない相手に、何でこっちが気を使わなきゃいけないのよ」
「あ、やっぱり二人デキてたんですね。そんな気はしてたけど」
「やっぱりわかるもん?なんか、同じ部署の先輩も気付いてたっぽいんだよね」
「結江さんはクールそうに見えて、結構表情に出ますから。わかる人はわかると思いますよ」
「そっか、でももう別れるから。別れるっていうのかな?そもそも付き合っていたわけでもないだろうし。私って何だったんだろう。愛人?でも別にお金を貰ってたわけでも無いしな。セフレ?こんなに年の差も立場の差もあるのに、セフレっていうものしっくりこないよね。どうせなら愛人って事でお金貰っておけば良かった。でも私がそんな事言い出したら、松岡さんも私の事なんか相手にしなかったんだろうな。妻とは上手くいってない、仮面夫婦をしているだけって言っておきながら、実際は妊活に励んでたわけだし、私がいなくてもセックスには困ってなかっただろうしね」
「でも、妊活って、夫婦の間で子作りっていう義務を果たす為の行為になってくるって言いませんか?」
「そうなの?じゃあアレかな。家では夫としての義務を果たす為に奥さんとセックスして、そういう義務としてのセックスでは満たされなかったフラストレーションを解消する為の道具が私だったのかな。いよいよ馬鹿みたいだね。ただ搾取されてただけとか」
「会社に言いつけちゃえば良いんじゃないですか?強要されてたとか言って」
「会社は松岡さんの方を守るし、信じるよ。松岡さんの方が私より周りからも信頼されてるしね。扱いづらくて面倒臭い私を切り捨てて、松岡さんを残す方が会社にとって有益だろうし」
「ふーん、そういうもんなんですね。美音さんはどうなるんです?」
「あの子は一応始末書を書くけど、それで終わりだよ。これから産休に入るから、今、下手に不利益になる処分をしたら、逆にマタハラだなんだって騒がれる可能性もあるし。産休、育休を経て戻ってくる頃には、もうそんなトラブルなんて無かったかのように扱われるでしょ。その分、私が責任を負って、職場でも暫くの間は針の筵で過ごす事になるんだろうけど」
「踏んだり蹴ったりでめちゃくちゃウケますね」
「何?今日は随分饒舌で毒舌じゃない。何か良い事でもあった?」
「全然無いです!寧ろ、結江さんに負けないくらい最悪です!」
「何かあった?」
「亜希が美音さんの披露宴で新曲を歌うって事、僕、事前に知ってたんですよね。ユウジの留守中に、ユウジと僕がルームシェアしているマンションに亜希がデモ音源を取りに来たんで、『何に使うの?』って聞いたら、『七日の美音さんの披露宴で歌う』って言うから、何となく色々勘付いちゃって。広栄社さんくらい大手の出版社が事前にことを把握していてオッケーを出すとも思えないし、美音さんがわざと新曲の流失をさせようとしてるのかなとか、その事に亜希は気付いてないんだろうなとか。結江さんに迷惑が掛かるだろうな、とも思いました。でも僕、わざと伝えずにいました。スイマセン。だからここは僕の奢りにさせてください。そんなんでチャラになるとは思ってないけど」
「何それ。最低じゃん」
「最低ですよね。僕もそう思います。でも僕、その時思ったんです。この新曲の流失が問題になれば、もしかしたら亜希にも何かしらのペナルティが発生するかもって。そしたら、ユウジが亜希に対して愛想を尽かすかもって。婚約も解消になるかもって。そうでなかったとしても、イベントは中止になって、新曲の発表も無くなって、僕たちもこの問題で干されるようになって、このままインフィニティは解散になるかもって。ユウジが、僕とのルームシェアを解消して、亜希と結婚して、亜希との新居に移り住んで、僕だけが独りぼっちで取り残されるくらいなら、全員で地獄に落ちた方が良くないですか。みんな道連れで不幸になれば良いなって思ったんですよ」
「本当最低だわ。でも気持ちは分からなくもない。新曲の流失の問題が無かったとしたら、この案件の記事は何事もなく無事完成して、松岡さんのところには子供が生まれて、家族三人の幸せな生活がスタートして、私との関係なんて最初から無かったみたいな態度を取られて、私一人が辛い思いをするだけだったしね。寧ろこの事があって、松岡さんの信用にも傷が付いたのは良かったのかも。でも欲を言えば、私はもっと松岡さんに迷惑をかけてやりたい。皆もっと不幸になれば良いよ」
「ねえ、なんかもう死んじゃいませんか?周りにも迷惑をかける方法で。僕、もう生きているのが面倒臭いです」
「良いね、それ。でも周りの人の命を奪うとか、怪我をさせる方法で死ぬのは、流石に嫌かも」
「じゃあ飛び降りとか電車への飛び込みはダメですね。周りを巻き込む可能性がありますし。部屋で練炭自殺とかどうです?事故物件になったらかなり迷惑になるけど、他人の人体にはそこまで影響無いんじゃないですか?」
「でも部屋は結構損害も大きいから、家主さんに申し訳ないかな。近隣に一酸化炭素が漏れても困るし」
「結江さん我儘ですね。周りに迷惑をかけて死にたいって言いながら、結局迷惑をかけない事を考えてるじゃないですか」
「そんな事無いよ。不幸になれば良いって思っている奴らには思いっきり迷惑をかけて死にたいけど、それ以外の人は巻き込みたくないってだけ。あ、ねえ、練炭なら車にしない?部屋と比べたら車の方が損害も少ない気がするし、人通りがほとんど無い山中とかなら巻き込みの可能性も減るしさ」
「良いですけど、僕、車も免許も持ってないですよ」
「使えないなあ。あ、じゃあ松岡さんの名義でレンタカー借りちゃおう。会社に、確か松岡さんの免許証の写しがあったはず。取材先に事前に身分証を送る時とかよく使うから、何枚かストックがあるんだよね。車の返却が無いってなったらレンタカー会社から松岡さんに連絡が行くと思うし、私の遺体の第一発見者が松岡さんだったらめっちゃ気分良いわ」
「じゃあ、それで決定。練炭ってどこで売ってるんですか?ホームセンター?」
「分かんない。ドンキとかには無いのかな?見に行ってみる?せっかくだから、綺麗な便せんとかも買おうよ。悲劇のヒロイン感丸出しの遺書を書き残しておきたい。すいませーん、お会計お願いします」
「あ、ここは僕が奢りますって」
「どうせこれから死ぬんだから、もうどっちが払っても良くない?」
「それもそうですね。じゃあご馳走様です」
「いいえ。ねえ、ここから一番近いドンキってどこか調べてよ。私レンタカー会社探すから。あ、ねえ、もう七月になるのに、夜だと外はだいぶ涼しいんだね」
 店の扉を開けた瞬間に吹き付けられた夏風はいつもよりも清々しく感じて、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。

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