森の墓地(短編)(2382文字)

 ストックホルム中央駅から南へ下る地下鉄に乗ると、その乗車人数の少なさに不安を覚える。前の車両から移動して来た物乞らしき男性は、乗客一人一人に寄付を求めて声を掛けていたが、私が一人で座るボックス席まで来ると、「Oh! Hello!」とだけ言って通り過ぎた。平日の日中に、アジア人の小娘が北欧の地下鉄に乗車しているのは相当珍しかったのだろう。向こうも私に吃驚した様子だった。目的地までは十五分程であったが、あの物乞いが再び私の所まで戻って来て金品を奪いやしないか、気が気ではなかった。ここから、もっと治安が悪くなっていくのだろうか、市街地へ戻った方が良いのかと悩んでいるうちに、列車は目的地であるスコーグスシュルコゴーデン駅へと到着した。

 地図を確認しながら五分程歩くと、駅名ともなっている「森の墓地」にたどり着く。中央駅の駅前とはうってかわり、木々に囲まれたその墓地は、ただただ静かだった。ひとさまの墓地で「落ち着く」という感想は不謹慎にも思われたけど、やっと肩の力が抜けたようだった。初めての海外、初めての一人旅。母国語はスウェーデン語なのに、店員や駅員もみんな流暢に英語を話している事。スタイルが良く、どこを見渡しても美男美女しかいない街に、独り、幼顔のちんちくりんな日本人が歩いている事。全てにずっと緊張をしていたのが、ここにきてやっと解放された気分だった。広大な敷地内を、薄く白い息を吐きながら歩く。まだ10月だというのに、明日のストックホルムは雪だと、天気予報が言っていた。オフホワイトのマフラーを巻き直して口元を埋める。
 何の目的も無くただ歩みを進めていると、目の前に小高い丘が広がっていた。入り口で撮影した敷地内の地図を確認すると、「瞑想の丘」と書かれていた。緩やかな坂を上がり、頂上まで登ると、ぐるっと一周を見渡してみる。少し離れた所にある、大きな十字架が目に入った。途端、急に空が暗くなり、辺りに霧が立ち込めてきた。不安を感じ、スマホを握る手に力が入る。霧が森の全体を包み、さっきまで開けていた視界が全て奪われると、後ろから膝カックンをされたみたい時に、一瞬、身体に力が入らなくなった。
 少しだけ飛んだ意識は直ぐに戻り、スマホのライトを点灯させながらゆっくり降りてみようかと逡巡しているうちに、霧は少しずつ引いていった。安堵してもと来た道を戻ろうとすると、先程目に入った十字架の下に、一人の男性が佇んでいるのが見えた。男性は十字架を見上げ、胸元で右手を硬く握っている。横目で観察をしながら丘を下り、また急に天候が変わる事を危惧して駅へと繋がる入り口へ向かおうとすると、不意に男性がこちらを向き、互いの目が合った。柔らかな眼差しに吸い込まれるように、自意識とは逆に男性へと歩みを変える。男性は、眼差しとは反対に、冷たい表情をしていた。体調不良だろうか。救急車はどうやって呼ぶんだっけ、と考えながら、震える声で「Are you ok?」と尋ねる。
「大丈夫。ありがとう。急に天気が変わって、驚いていただけなんだ」
 どう見ても欧米人であろう男性からスラスラと日本語が出てきた事に、戸惑いを隠しきれなかった。寒くなってきたね、と男性は続けて、硬く握っていた右手を開き、左の腕をさすった。よく見ると、ワイシャツにスラックスという、随分と薄着をしている。
「あ、あの、そこ、礼拝堂があるんで。そっちの方が寒くないと思いますよ」
 スマホ画面を確認しながら、十字架の近くにあった建物を指差して伝えると、彼は緩やかに微笑んだ。
「ありがとう。優しいね。でも大丈夫。ここで人と待ち合わせをしているんだ」
「あ、じゃあ、これ」
 そう言って彼にカイロを渡す。
「カイロ。わかりますか?こう袋から出して、シャカシャカすると温かくなります」
 カイロを差し出す私の指と、不思議そうな顔をしながらカイロを受け取る男性の指の指が触れた瞬間、その冷たさに小さい悲鳴をあげる。苦笑いの男性は、入り口とは逆の小道を指差し、帰るなら、あの道を真っ直ぐ行くと良い、と言った。
「え? でも、あっちは来た道とは逆だし……」
「大丈夫。僕はこの辺りに詳しいんだ。信じて。あの道を真っ直ぐ進んで。また天気が変わる前に」
 そう言う男性に促されるがままに、「七井戸の小道」と記された、両脇には木々が並ぶ、細く長い小道へ歩みを進める。ひたすら真っ直ぐに進んでいると、小道の突き当たりにある礼拝堂から、神父と、喪服を着た人々が出てくるのが見えた。一行は私とすれ違うと、小道沿いにあった一つの墓標の前で止まる。各々が花を手向け、祈りを捧げている中、ただ一人、老婆のみがその墓標を通り過ぎ、私が今来た小道の先へと歩みを進め、そしてその姿は次第に見えなくなっていった。喪服姿の若い女性が、墓標の前に写真立てを置くと、隣に居た男性は女性の肩を抱き、啜り泣く女性を引き寄せた。最後に神父からの祈りが捧げられ、一行もまた、小道の先へと消えて行った。ぼんやりとしたまま一連の祭祀を見送ると、先程まで人々が集まっていた墓標を覗いてみる。古い写真立てに写るワイシャツ姿の男性。そして、その隣に並べられた、老人女性が写る写真立て。墓標には二つの刻印がなされており、一つは40年前、もう一つは一昨日彫られたもので、姓は同一だった。そして、色とりどりの花に囲まれる二つの写真立てと、それらとは似つかわしくない、日本語が書かれた赤いパッケージのカイロ。ハッとしてもと来た道を振り返るも、最早誰の姿も見えなかった。

 風が強く吹き始め、分厚い雲を流し、陽の光が差し込み始めた。スマホを取り出し、入り口の位置を確認して歩き始める。再び大きな十字架のそばを通るも、閑散としていた。きっと無事に会う事が出来たのだろう。また天気が変わる前に、駅へと急いだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?