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紺色の中原中也

 ウィィィィーンという音がして、黒いディスプレイが水色を映した。太い黒で縁取られた窓枠の中に、4色が彩られたロゴ。

 居間のパソコンとクーラーのスイッチを押してから、自分の部屋で私服に着替える。居間に戻ってきたところで起動音がしたので、急いで四角い箱の前へ。父親の名前の下の欄に、教えてもらったパスワードを打ち込むと「読み込み中...」へと表示が変わる。この間にキッチンへ行って冷蔵庫から麦茶を取り出し、ガラスのコップに注いでから一気に飲む。

 何度か麦茶を飲み干しているうちに、デスクトップが表示された音がしたので、ブラウザのアイコンをダブルクリック。再び現れた父親の名前の下にパスワードを入れる。「ダイヤルアップ回線に接続中...」という表示が出て少しすると、エレキギターの弦を弾いたような音が響く。

 アイコンのNのマークの周りを光を表したグラフィックが何度も行ったり来たりするのをぼーっと見つめていたら、検索ポータルの赤いロゴが上から少しずつ姿を現した。ディスプレイの右下の表示は16時28分。今から2時間後なら、ちょうどお母さんが帰ってきて夕飯を始める時間に間に合う。こうしている間も電話代がかかっているかと思うと、何にどう時間を使うか、もう頭がショートしそうだ。

 まずはブックマークを上から順番にクリックして、お気に入りのサイトが更新されていないか見て回る。昨日も同じことをしたから、今日新しく更新があったところはあんまりない。子どもは夏休みだけど、大人は平日だし。

 5番目のブックマークをクリックすると、画面が紺色に染まった。次に浮かび上がったのは見慣れた中原中也の詩。縦書きってどうやって表示させてるんだろう。

 ざっとトップページを見回して、はたとマウスの手が止まった。白い「diary」の文字の横で、小さな「new!」が点滅している。指先がすぅっと冷えていく。急に静かになった居間で、心臓が小さくトクトクいっている。

 ぎこちなく動くカーソルを「diary」の文字に乗せてから、そっとクリック。全てが紺一色に染まって、少し遅れてから白い文字がびっしり浮かび上がった。文字を追いかけた目がどんどん滑っていく。だめだめ、もったいない。ゆっくり読もう。小さく深呼吸。

 “7月29日。今日も学校帰りに自由が丘。”

 chigusaさんはいつも「自由が丘」で寄り道をする。どんな街なんだろう。小さなお店がたくさんあるってことは、並木通りみたいな感じかなぁ。水色の建物があって、石畳の道があって、お菓子屋さんや文房具屋さんが並んでいて・・・

 「みずきちゃーん、羊羹切るけぇ降りて来んさーい」

 突然、階段の下からおばあちゃんの声が駆け上がってきて、画面から引き戻された。それでも、首はすっかりモニターに向かって固定されてしまっている。

 「・・・あとでいくー!」

 画面に向かって叫びながら、目はもう紺色に吸い込まれている。chigusaさんの日記に出てくる友達はそんなに多くない。彼女は大抵いつも一人で行動して、本を読んだり、買物をしたりしている。chigusaさんの好きなもの、感じたこと、思っていること。紺色の海の中を白い文字と一緒に泳いでいく。

 「みずきちゃん、お茶が冷めるで!」

 今度はおじいちゃんの声。締め切った窓の向こうから、蝉の声が耳に入ってくる。息を吸い込んでから、階段を向いてなんとか声を出す。

 「・・・はぁーい!」

 ようやく本気を出したクーラーから、埃っぽい臭いと冷たい風が吹き出して、中腰になった私の背中に当たる。スクロールバーを何度連打しても、もう画面は動かない。

 小さく息をついてから、ゆっくりマウスを動かして「ファイル」「接続を切断」をクリックした。

 画面は紺色のまま、パソコンの前を離れて階段へ向かう。麦茶がほんの少し残ったグラスが、マウスの横でひとり残されていた。

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