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話しを聞いてもらえるありがたさ

こんにちは,HARuです。今日は「子どもたちが,ただの一般人の話を聞いてくれることをありがたいと思いたい」というお話。

最近,ふと思うようになったのですが,教員は子どもたちに話をする機会が多いなと。朝のショートホームルームや帰りのショートホームルーム,学級活動,道徳,時によっては自分の担当している授業時間。
子どもたちに何かを話そうと思うと,これだけチャンスがあるんです。

今日は,そんな中で感じたことを書いていきます。
お時間ありましたら,お付き合いくださいませ。

では,いってみましょう!

先生って話す機会多い

最初にも書きましたが,先生って子どもたちに話をする機会の多いこと。
一般的には信じられないくらい多くないですか?
会社の上司が朝,帰り,仕事中話をするなんて状況ないですよね?
朝の打ち合わせくらいはあるにしても,帰る前に,「じゃ,部署のみんな集まって!私が話をするから聞いてくれ。」なんて言わないじゃないですか。
でも,学校はそれがあるんですよ。
朝も帰りも,場合によっては授業でも。
こういうところが学校の先生って特殊だなぁと思う所以なのですが…。

先生だからこそ

さらに言えば,子どもたちが話を聞いてくれるのって「先生」とい役職だからですよね。
なんなら,話の聞き方なんかも指導して。
「はい,今から先生が話します。目とおへそはこちらに向けて!」
学校現場ではよく聞くセリフです。でも,子どもも大人も,興味のある話は真剣に聞きますよね?
自分が関係する話であったり,有益であったり,楽しい話だったら,言われずとも自然と体がそちらを向くと思うのです。
ちびっ子たち(ここでは未就学児をイメージしています)は,テレビに夢中な時,目線外さないですよね?
身体もかなりの確率で正対しています。正面を向いて,目とおへそはテレビに向いてます。
個人的には,「目とおへそはこちらに向けて!」というセリフは,敗北宣言のような気がします。つまり,今から面白くない話をするかもしれないけど,聞いてほしいという。もしくは,真剣に聞いている雰囲気を醸し出してほしいという。

授業開始と終了のあいさつも特殊

同じように授業の開始と終わりに「よろしくお願いします」「ありがとうございました」とあいさつをするのですが,これも個人的には違和感です。
あいさつに対して不満がある訳ではありません。あいさつは大切です。しかし,それはコミュニケーションとしての「あいさつ」(おはよう,こんにちはなど)であって,授業の開始と終了のあいさつのことではありません。

そもそも,この授業の開始と終了のあいさつってなぜしてるんでしょう?
指導してくださる方への敬意を表すため?
あいさつをして休み時間と授業の気持ちを切り替えるため?

確かに,メリハリとしての一面もあるかもしれません。
しかし,近年の学校教育は,

指導から学びへ

転換が図られているところです。指導者への敬意というのならば,それは当てはまらないことになるでしょう。
では,休み時間との切り替えのためという意見はどうでしょうか?
私の場合ですが,私は,現在授業開始と終了のあいさつは廃止しています。
子どもたちに声をかけて,「じゃ,始めるよ。今日の課題は〜」といきなり本題に入ります。
子どもたちは気持ちの切り替えができないようには見えません。
もちろん,話し始めて数分は落ち着かない雰囲気もあります。しかし,課題の内容を話している間に,落ち着き話を聞いてくれるようになります。
個人的にはこれで十分ではないかなと感じています。

先生=指導者 時代はとっくに終わった

自分が学生の頃,先生はエラくて怖い存在でした。そんな中,気軽に話せる先生がいてくれたことがどれだけ,ありがたかったか。
そして,現代の教育において,教師=指導者の図式は崩壊しつつあると思います。
なぜなら,教育に関する情報が世の中にはあふれているからです。

みなさんは,何か新しいことを始めようと思った時どうしますか?

・YouTubeを見る
・書籍を購入する
・人に聞く,教えてもらう

この辺りの手順が多いのではないかと思います。
実際,YouTubeには良質な情報がゴロゴロしています。私自身も,本の要約や金融教育などYouTubeから学ぶことは多くあります。
そんな時代に生きる子どもたちが,
むしろ,デジタルネイティブと呼ばれる生まれながらにデジタルが身近にあった世代の子どもたちが,教師から一方的に教えてもらう必要があるのでしょうか?
今までの(私自身も受けてきた)授業は,一斉授業といって,教師が子どもたちに知識や情報を伝達する形式でした。
この教授法が用いられた理由は,教科書が高価で手に入れることが難しかったためです。子どもたちのために大人(先生)が分かりやすく説明し,内容を黒板に書き説明をしたのです。子どもたちは,手元にない教科書の代わりにノートをとり,それを知識の源泉としたのです。
明治の頃の先生方は,子どもたちからしてみれば,自分の知らない知識を教えてくれるスゴイ人だったのでしょう。

繰り返しますが,現代の子どもたちは情報源がいくらでもあります。もちろんその情報自体玉石混交ではありますが,ある程度の知識ならば「無料」で手に入る時代に生きているのです。

話を聞いてくれていることに感謝

そんなか,子どもたちはよく「先生」の話を聞いてくれるなと感謝しています。
これって,「先生」という役職でなければあり得ない状況ですよね。
どう考えても,専門でもない(授業や教科の話しは別として)話を,誰かが一生懸命聞いてくれる,うなずきながら聞いてくれるなんて,ある意味特殊な状況だと思っています。
それを私たち教員は自覚しなければいけないと思うのです。

だからこそ,自己研鑽が大切だと思います。
どうせ話しをするのならば,子どもたちに少しでも有益な情報を話したい。
過去の自分の成功や自慢なんて,子どもたちにとっては何の足しにもなりません。

何を話すか

全く教師が話をしないというのが,現在の学校の現状では難しい部分があります。さらに言えば,コミュニケーションとして話をすることは必要だと思っています。しかし,強制的に,子どもたちが我慢して聞く話は意味がない。どうせするなら子どもたちにとって有益な情報を伝えたい。

私は,自分の失敗,現在の社会情勢,金融教育など今まで学校では教えてこなかったと言われることを少しでも伝えたいと思っています。
もちろん,全ての子どもに伝わるとは限りません。しかし,その中の2割でも話が印象に残ってくれたり,現在の社会情勢に興味を持ってくれたりすることは,個人的にはうれしく思います。

教師が自分磨きをする時間を確保するためには,結局のところ

働き方改革

なんだろうなと思ってしまいますが💦
※現在の多忙な状況下でも多くの教員は自己研鑽に努め,少しでも現状を改善し投与していることだけは伝えさせてください🙇‍♂️

宣伝で申し訳ありませんが,もしよろしければ以下の記事も一緒にご覧いただけると幸いです。


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