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2千年経っても私たちは恋をして分かり合えず道の上で立ち尽くすのだろう。

2021年の年末、唐突に思った。
普通に生きたい、と。

普通に生きて、普通に死にたい。
家族以外の誰からも記憶されず、統計の中の1という数字として生きて、死にたい。何も残さず、何も生み出さず、生きて死にたい。私という人間が生きていたことを100年後の人が誰一人覚えていなくても全然、構わない。ただ私は私の感性を震わせて、生きて終わりたい。


そもそもが特別な有名人でもないのだから、自分に対して普通になりたいとかいうのはおかしな話だろう。こうしてnoteやブログ、Twitterで呟きを放つことも辞めていないのだから、大変矛盾していることも自覚している。
けれど、私はその他大勢だ。才能の無さに打ちひしがれて、自分の底の浅さに毎日打ちのめされて、思いを誰かに分かって欲しくて悪あがきしている、普通の人。そういう私でいたいと、思った次第なのである。

人生の決断のきっかけなんて、きっと下らない事ばかり。

「誰かを救う人」という立場を得てみたいともがき始めたのが、2021年のはじめ。そこから試行錯誤し努力したと我ながら思う。うん、普通ではない人になりたかった。特別な側、誰かを救う側になってみたかった。

だけど、読んでもらう記事の書き方。分かってもらうのでなく、気づきを与える目線の持ち方。書くほど分からなくなった。なんで私はこんな事してるんだろう。

「教えてあげるよ、こんな風に考えたらいいよ、こんな目線を持ってみたら心が軽くなるかもよ(それが全てではないけれど)」
だけどさ、人生の正解なんてどこにも無いじゃん。絶対的な真実も誰もが幸福になれるメソッドも存在してないじゃん。存在していたら今頃、人類は滅亡しているよきっと。争う事も戦う事もせずに。

書くほどに自己矛盾が出てきて、結局分かったのは「私は別に与えたいとも救いたいとも思っていない」という絶望的な事実だった。

だってそもそもが、私たちはすべからく救われている。どんなに惨めだろうと、どんなに苦しかろうと、命があるという一点、そしてその命には終わりがあるという事実だけで救われている。

この信念がある以上、もうそこを押して「何かを与える人」を職業として選択する熱意は私の中には無かった。
そういう意味で言い換えるなら、自分の信念が明らかになった1年だったのかもしれない。

* *

で、ここからがようやく本題(導入長っ)
そんな風に一年間頑張ったあれこれをすっぱり手放す、最後の最後の一押しがとあるコンテンツのに落ちたことだった。
ええ、沼です。ゲームとその周辺の2.5次元で展開される物語の沼に落ちた。見事にずっぽり落ち、その界隈を探るうちに今どきは二次創作で短歌を作る人たちがいる事も知ってそのエモさに悶えた。

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今まで見向きもしなかった短歌の世界に触れ、その深さにおののきながら今、短歌の海に溺れている。今ココ。
タイトル画像の通り、今読んでいるのは「つながる短歌」あんの秀子著。
古代の和歌と近代の短歌を並べ解説をしてくれている本なのだが、いやあ「わかるわかる、その気持ちわかる」の連続。

千年前の人たちが現代の私たちと同じようにままならない想いに身を焦がし、季節の移ろいに心を震わせ、その想いをうたっていた。戦で死ぬことを覚悟した武将が、自分のうたを遺品として世に届けと願った。

なあんだ、全然「人」って変わっていない。

戦争をして争って傷つけあって、その苦しさの中にあっても心を震わせれば表現せずにいられなくて、歌ったり絵をかいたり物語を紡いだりしている。コロナ禍の中にあっても歌は無くならなかったし、演劇も失せはしなかった。物語は生み出され続け、誰にも届かない言葉が毎日どこかで放たれては消えていた。

その「人という生きもの」の有り様が愛おしいと思う。

はかなく終わってしまう事すら、含めて。

<神様は優しいですね「おしまい」の四文字を僕に残してくれて>

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