それっぽいからの脱却
無職になった。
自分の心が動くものに時間と想いを集中させようと思ったのと、自分のペースで進みたいという気持ちが強くなったから。いまは関わる物事や自分自身の整理をしている。
本当の意味で自由に時間を使えるようになってから、よく畑に通うようになった。五城目町舘越にある菜種畑とポコポコファーム。
最初は、九月に播いた菜種が愛おしくなってただその様子を見に行っていた。それが、カブの発芽を任されて植えてからは、育っていくカブが可愛くて仕方なくなった。そんな具合に一つ、また一つと畑に足が向かう理由が増えていっている。
五月から地域での暮らしや事業に興味関心があり、自身も活動をしている少人数の有志メンバーで月1度、集まってゼミ活動をしている。活動内容は個人の活動発表と課題図書の輪読だ。
ゼミがスタートしてから約半年、自分の個人発表はどんな内容にしようかと頭の片隅で考えながら生活してきた。
五城目に滞在して関わってきたプロジェクトや日々の生活の中にゼミの題材となりそうなものはいくつも転がっていて、テーマ設定も個人発表のnoteを書くことも難なくできそうな気がしていた。
けれど、油を売って暮らすぞ〜と言って、笑いながら菜種を撒いて、畑に通うようになってから、その難なく出来そうだと思っていたことは実は単なる言葉の当てはめでしかないと気づいてしまった。
会う度にお裾分けをくれたり、この畑も使っていいよと声をかけてくれるミチコさんとの時間を、贈与と利他をテーマに話すことは出来るのだろうか?
うんざりするほどそれっぽい言葉の数々、に捉われている自分。
結局、自分のそれっぽさに辟易してしまって全然書き進められなかった。
畑にいると言葉があまり意味を成さないことが多い。動作から学び、自分も手を動かす。経験を積んで、次に活かしていく。そこには多くの言葉も、それっぽい概念もない。
本間さんは「玉ねぎの植え替えは、二本の指でこうやって穴を掘って、こうやって玉っこ隠れるくらいに植えてる」と教えてくれる。私もやってみる。
「こんくらいの太さと感覚で作ってみて」と、まるちゃんが畝の立て方を教えてくれる。次に播く燕麦の畝は自分で立ててみよう。
これまでの自分は、知識を共有したり書籍から学びを得ることで思考の浅さを埋め合わせることに必死だったのだと思う。けれど、畑に通う中で、外付けのそれっぽい言葉で語るところから脱却して、手を動かして経験し続けた先の世界を見たいと思うようになった。
もちろん、本を読むことや研究活動を否定している訳ではない。わたし自身、本や論文を読むこと、議論をすることは大好きだ。何かを生み出すための時間と深める時間、広める時間、それぞれのわたしなりのバランスを探っていきたいと思っていて、今は手を動かして生み出すことに時間を使いたい時なのだと思う。
文字通りの種撒きを終えて、これから作物も事業も育んでいく。
どちらにも、たっぷりの愛情を注ぎ込もう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?