比較基準の問題点

人が思考し意思決定する、選択する基準には大きく2種類あると考える。

1つは現時点ですでに社会に定着した規範や価値観、
例えば文化や伝統、宗教、倫理道徳観や思想などです。

幼少期の頃より親や社会から受ける影響によって、
無条件で信じられる基準がいくつか形作られ、
その後の人生の思考等に影響を与える。

しかし当然ながら社会や環境、人間関係は変化するものであり、
無条件の基準への信頼が何らかの要因で崩れてしまうことがあり得ます。

ある個人は個人として思考し意思決定する必要に迫られる、
そうなった時に基本的には比較という基準が使われます。

自分と自他、あるいは自他と自他のあらゆる比較を通して、
何かしら選択の基準を見出そうとする。

しかし比較にはいくつか欠点がありその1つとして、
比較対象に印象が左右されるというものがある。

何と何を比較するか、どのような基準で比較するかによって、
その印象も重要度も意思決定に与える影響も変わってくる。

例えばあまり素行がよろしくない人が何かしら問題を提起しても、
そこまで重要なことだと考えることはあまりないでしょう。

オオカミ少年が嘘をつき続けた結果、本当にオオカミがやってきた時に、
本気で危機を訴えても誰にも相手にされることがなかったように。

ですが、これまで品行方正に生きてきた人が問題を提起したとしたら、
何事かと、よほどの何かがあったのだと考えることのほうが多いでしょう。

自分が認識できている範囲の物事により比較による基準は定まる、
逆に言えば認識できない範囲の物事は度外視されるが故に、
比較対象次第でいくらでも印象を変えられるのです。

それは自分に対しても他者に対しても同じ。

自分が自分に与える印象、重要度、影響もそれを発信した時、
他者に対して与えてしまう影響も変わってくる。

ようは比較とは比較対象によって簡単に揺らいでしまうもの、
加えて何を比較しようと結局のところ現実の一部の切り取りに過ぎず、
現実的な意思決定等の妨げになる可能性も高まるということです。

とは言え勘違いしないでほしいのは比較という基準は、
現実、あらゆる要素の相互関係を分析、活用するうえで、
役に立つものであるのは間違いない。

ただ、あまりにも狭い範囲や少ない要素の比較にとどまっている場合、
結論ありきでそこに誘導するための手段として用いられる場合、
相互関係の変化を考慮せずある要素に固執する場合。

逆に現実に対する認識を歪めてしまうことがある。

そのため、まず比較する基準をきちんと精査することは大事だと思う。

意思決定等の中核を成す基準はどのような比較から生まれたのか、
何を重視し何を切り捨てたのか、あるいは認識できてない要素はないか。

そういったことをできるだけ事前に考えてみる。

また、他者から受ける影響がどのような基準から生み出されたものか、
前提となっていること、前提を定義するのに用いた比較対象など、
できるだけ明らかにしたうえで精査し活用するか否かを決めていく。

それがより良い思考や意思決定につながると思う。

現代は誰でも簡単に情報発信し触れられる環境故に、
あらゆる比較対象が溢れている。

ちょっとした情報でも触れ続けていれば比較対象としての重要度が上がり、
意思決定等に大きく影響することになるでしょう。

引いては人生に多大な影響を与える基準が無自覚に生まれる可能性もある、
それに知らぬ間に振り回されてしまうこともあるかもしれない。

そうではなく自分の意志でしっかり考え意思決定し、
選ぶべき道を定めたいと思うのであれば。

比較基準の扱い方はきちんと意識的にコントロールするのが大事だと、
そう思ったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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