自分の感覚(感情)にだけ集中すると逆に自己が失われる

個人的な所感ですが最近、自分の感覚や感情に素直になるのが大事、
他人の意見に縛れるな的な主張等が増えてきたように見える。

第二次世界大戦敗北後、西洋から輸入された自由主義や個人主義は、
現代に至ってその影響力を盤石にし誰もが自由、個人であることを、
意識的には善とし社会に帰属することを時に忌避するようになった。

中には国や社会は個人を満たすための道具だと、
どこまでも傲慢になるような人もいる。

自分の感覚に素直になる、集中するというのもその一環でしょうが、
自己を何にも揺らがない自分だけの意志、軸であると定義するなら、
自分だけの感覚に素直に集中することはむしろ自己喪失につながります。

感覚とは反応でありその大半には外からの影響があるからです。

人間には意識と無意識、2つの人格とでも呼べるものがありますが、
感覚、感情などを司っているのは無意識の方。

ですから感覚に正直になるとは無意識に正直になるということですが、
無意識には自分の意志と呼べるようなものはないと考えられる。

無意識は目の前にあるもの(認識できるもの)を刺激として受け取り、
それに沿ってこれまで積み重ねてきたもので形作られたプログラムや、
生来的な特徴によって一定の反応を機械的に起こす機能。

故に自分の感覚に集中とは主に外から受けた反応に集中するということ。

外、つまりは他人や社会から受ける影響、
これまで積み上げてきた過去の何かの影響。

それに反応するだけの自分の感覚に集中し素直になったとして、
果たしてそれは能動的に前に進む自らの意思、自己であると言えるのか?

自己をただ自分の感覚だけを満たす楽な状態であると定義するなら、
それを自己を確立することだと言う人もいるでしょう。

ですが先に話したように自己を何にも揺らがない軸と定義するなら、
自分以外のあらゆる影響に反応する無意識の感覚を頼りにする自己は、
何ものにも揺らぐ、ただ流されるだけの意志である。

そう考えると結局のところ現代で言われている自分の意志が大事、
他人に影響されるなというのは自分自身としての軸をしっかり持ち、
何に影響されても揺らがず貫いていこうとするものではなく。

ただ自分の無意識の感覚に楽な方に流されていればいいという、
主体性の欠如を助長するものであるようにしか思えない。

自己とは無意識的、言い換えれば現実の流れの中で生まれた自分と、
意識的、自らの意志で能動的に考えることによって生まれる自分。

両者の衝突とそれによる迷いや葛藤、苦しみ等を乗り越えて、
自分が正しいと思う、後悔しない道を歩んでいくことを指すと考える。

自分の感覚、無意識にのみ集中するのはただのわがまま、
それも動物的な本能によるわがままに過ぎない。

そこに人間的な自己などない、それを理解してなお、
感覚にだけ集中するのが大事と、それが自分を持つことだと。

臆面もなく思えるのなら言えることは何もない。

しかしそうではない、本当の意味で自己を持つことを求めるのなら、
むしろそれは感覚的な苦しみの先にあるものということだけは、
しっかりと自覚し乗り越えるための意志を育むのが大事に思う。

自分の感覚という基本的に過去から、外からの影響の積み重ねと、
まだ見ぬより良い未来を目指そうとする意識的、能動的な意志の衝突、
それによって生まれる迷いや葛藤を超克しようとする強い信念。

そういうあり方に向き合い拾い上げたものに宿るのが自己であると、
意識するのが大事であると思うのです。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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