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#148【ピリカ文庫】妻からのエール



「そろそろ白いメッシュのスニーカーが要りそうだよ、十和子」

作り付けの靴箱を見上げる。夏物は一番高い段から二段分だったかと目星をつける。奥を手探りで探す泰生の手がスニーカーよりも先に触れたのが、十和子が仕舞ったままの赤いサンダルだった。

踵のストラップに指を掛け引っ張り出す。
その瞬間、まるでスローモーションのようにこぼれ落ちた砂。

「君がどうしてもやってみたいって言うからさ‥‥‥」


二年前、二人揃って七十のよわいを迎えられたお祝いに、泰生と十和子は地中海へ旅をした。

毎日違うビーチを散策していたら、ある日、話には聞いていたヌーディストビーチに迷い込んだことに気づく。
最初は自分達がこんなところに居てもいいのか戸惑った二人だったが、少しずつ目が慣れてきた。

こんがり焼いた肢体を陽に輝かせる若者達。
着いたばかりなのか、まだ真っ白な肌に日差しが痛そうな家族連れも。
トップレスの人も全裸の人も。
女性だけが水着を着ているカップル。
あらゆる肌の色に髪の色‥‥
照り付ける陽に気化した日焼け止めオイルのココナツが鼻をくすぐる。

自分の体形を卑下している人などいない。
手を繋いでビーチを闊歩する高齢の男女も目にした。

たるんでいようがゆがんでいようが自分は自分だ、と肯定し胸を張る老若男女ろうにゃくなんにょが眩しい。

「私も脱ごうかしら‥‥」

慎み深い自分の妻にしては突拍子もないことを言い出すので、泰生は目をまあるくして十和子を見つめ返した。

「誰も気にしてないわよ、こんなシワシワおばあさんなんて」

こんな歳になっても妻は自分だけのものだと思ってきた泰生だったが、そんな独占欲で「やめときなさい」という野暮な男にはなるまいと思った。

「今裸になっておかないと、死ぬ時に後悔する気がするもの」
追い打ちをかける妻の言葉に観念した。


ふたりで手を繋いで「えいやっ」と立ち上がった、
つもりだったが、それは「よっこいしょ」に近かったかもしれない。


生まれたままの姿で泳いだことなんてあっただろうか‥‥‥
初めて知る、自然と一体になった感覚。

体の弛んだ脂肪や、だらんとした部分にも、嫌でも水の抵抗を感じさせられる。それがむしろ愉快で自由だった。

その経験は十和子の頬を自然に緩ませ、生への愛おしさを想わせてくれた。


水しぶきと光のなかで無邪気に笑う妻をいつまでも胸に抱いていよう、と泰生は心に誓った。


『窮屈に生きてきたのかもしれない、私‥‥』
温かい地中海に抱かれて、十和子はなにかがほどけるのを感じていた。



コスタ・ブラバの旅の後、また今度この赤が似合うような場所に旅をしたくなった。
腰が曲がる前にもう一度このサンダルを履きたいものだ。いつの間に自分はそんな冒険家になったのだろうと、十和子の心が躍った。

そして惜しむようにサンダルを仕舞った。


「お気の毒ですが、十和子さんの癌は数か所に転移しています。長くて半年の余命かと‥‥」主治医の声が頭をこだまする。

十和子にはどうしても告げられなかった。

結婚して47年、よく風邪をひく泰生にちょっと呆れていたくらい十和子は病気知らずの女だった。

思えば予兆はあったのだと言える。
少し無理をすると息切れがしたり、一日出かけた後の疲労も尋常じゃなかったかもしれない。
そんな時いつも「歳には勝てないわねぇ〜」と肩をすくめていた十和子の横顔を思い出す。
物忘れが多くてビックリしたけれど、癌が脳に転移していたことと関係があったのか、とぼんやり記憶を手繰たぐってみる。
そんなことしたって、十和子の人生を巻き戻せはしないのに‥‥

人生のあっけなさに泰生は身震いが止まらなかった。


年明けに入院した十和子は、桜の開花を待たずに帰らぬ人となった。金婚式も待ってはくれなかった。
泰生の止まった時と同じように靴箱の奥で時を止めていた赤いサンダル。

泰生の脳裏に、買い物に出かけたあの日の十和子の悪戯っぽい表情が浮かぶ。
「ねえ泰生さん、こんな真っ赤なサンダル、笑われちゃうかしら?」

そう訊いた彼女に、きっと地中海に映えるからと勧めたのは泰生のほうだった。


そうっと指先でスゥエード部分を撫でる。

ツーっと泰生の頬を涙が伝った途端、少しだけ砂のついたサンダルを両腕で抱きしめて泰生は玄関に崩れ落ちた。

十和子の病気を知ってから、ずっとひとりではらはらと涙してきたが、葬儀の時でさえ、溢れる涙は拭い切ってきた。

((((( とわ‥こぉ‥)))))

堰を切って幼児のように上げた、七十過ぎの己の声を泰生は確認した。

『あんなに喜ぶのならもっと早く連れてってあげればよかった‥‥』

あの夏、火傷しそうな砂の上を、真っ裸にサンダル姿だった自分達が泰生の脳裏に焼き付いている。
「しなびちゃって」と十和子が呼んだ身体。苦労をかけたから、と思う泰生にとっては愛おしい以外のなにものでもなかった。

真夏の海で自分を解放した妻は、泰生のこれからにも「前を向け」という声援をくれたのだ。

「ちゃんとしないと十和子に叱られちゃうか‥‥」
そう呟いて
泰生は、散らばった砂を丁寧に塵取りにき取った。




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