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#197 何がかっこよくて、何がかっこ悪いか



最近ふと気づくと、腰が痛くない自分がいる。
そういえば朝、腰の痛みで起きるなんてことがとんとなかった。最後に痛かったのはいつだったかすら思い出せない。

あんなに毎朝辛かったあの頃。Ape* (エイプ) 歩きと自分で呼んだ、前かがみの歩行でやっとバスルームまで行き、熱いシャワーを思いきり背中にあてる。何分か経って、そこから初めて人間に戻る感じだった。
〈*Ape=類人猿〉

人は体のどこかが痛むからその部位の存在に気づくのだ。それらの大切さと日ごろの無理を教えられる。
あの頃より年々歳は取っているのに、腰のことを忘れて暮らす日々が来ようとは‥‥とありがたくて仕方がない。


最近よく聴かせていただいている斎藤一人さんは、「脳がストレスに対処できない時に、体が痛みを出すんだよ」というようなことを言われている。
抱えきれない時に、痛みのほうに思考を集中させたほうが楽だから‥‥と。
よくはわからないけれど、なんとか生きるための体の知恵みたいなものかもしれないな、と思う。
全く人間というのはいとおしくて困ったものだ、と思わずにいられない。
実際私がそのまんまだった。
色々あって辛かった仕事を辞めたら、腰痛で苦しむこともいつの間にか無くなっていたのだから、この正直な体に何と言ったらいいのかわからなくなる。

何でもっと早くに辞めなかったのかと思うが、私はきっと「無職」はかっこ悪いと思っていたのだな。だからあれだけの心と体の辛さに耐えたのだ。

かっこいいとかかっこ悪いって誰が決めるの?



私のイギリス人の義母ははは美しい女性ひとだった。背もすらりとしていたし、70代でもロードバイクを積んで運転してフランスに渡り、サイクリングやハイキングを楽しんだ人だ。
遠くの家族も皆、我が家に集合して80歳の誕生日を祝った日の写真がある。自分で運転して来た義母の髪はきちんとセットされ、いつもの若々しい姿。
90歳の誕生日をケアホームで迎えた日。あれからわずか十年なのに、その十年間にできた差は残酷なくらいに大きかった。

現在91歳になった義母は、ケアホームの他の入居者さんたちと交流をしたがらない。歯が抜けているのも髪がふわっとブローされていないのも、人と交わりたくない理由になってしまう。ずっと教員をしていて社交的な人だったのに、食事はダイニングルームに行かず自室で摂る。理由を訊くと、「食べる時にこぼすのよ」とか「車椅子に座ったままだと体が痛いの」と言う。
もちろん、車椅子からもっと楽な椅子に移動させてもらえるはずなのだが、義母はそんなふうに介助される姿を人に見られたくないのだと思う。

自分のなかにある『セルフイメージ』と現実との矛盾が直視できないのだと思う。
そんな義母を非難したくて書いているのではない。もちろん、本当は義母に伝えたいことはあるし、ちょっと視点を変えたら楽になるのに‥‥と、はたでモヤモヤすることも多い。
だけど人間が性格や考え癖を変えることは簡単ではない。ましてや年長者であるがゆえ納得せぬことには動かない。とてもわかるし、愛おしい。



日本で腰の曲がったおばあちゃんを見かけることがあった。
私の若い時には、『あんなに腰が曲がってまで、まだ畑にでなくちゃいけないのかな』とか『あんなに腰が曲がるんだったら、畑仕事なんて絶対いやかも』と感じていた。それはなんと傲慢なことだったか‥‥
なぜ腰が曲がっても畑に出ていられるかといえば、あれは器質的な変化であり、動けないほど腰や背中が痛くないからなのだ。自分の足で畑に立ち、作物を自分の手で収穫できる人が、憐れまれる必要など微塵もなかった。

個人差はあっても、歳を取ればだれもが自然に変わっていく。
若い時にはパッチリしていたかもしれない目も、皮膚が弛めば小さくなるし、顎は弛むし、シミも皺も増える。自らの姿を醜態だと思うのか、ぜーんぶ『想定通り!』だと笑って受け止めるのか‥‥

「こんな不自由な日が来るとは思いもしなかった‥‥」義母はそう嘆くけれど、
「いや、これ必ず来ますから!」と肝に銘じる自分がいる。

足を引きずろうとも、
床に顔が着くほど腰が曲がろうとも、
どんなに時間がかかろうとも、『自力で移動できる』って本当に尊いことなのだ。自分で行きたいところに行ける、やりたいことをして自分で帰ってくる。どれだけ凄いことだろうか。

私が言っているのは、『人の世話になる』つまり介護を受けることがかっこ悪いことというのではない。誰かの介護なしで摂食も排泄もできなくなる日はきっとやってくる。自尊心は必ず傷ついてしまうだろう。人間の尊厳が傷つくことなしに老いを受け入れる術はないという気がする。。
であれば、失ったことを嘆くよりもごはんが食べられる幸せにフォーカスしたい。ホームのお世話になっても、コールすれば誰かが来てくれることを『ありがたい』と思える心が欲しい。何が欲しいって、『いつでも感謝のほうに向く心が欲しい』と、切に願う。

私にとって、何がかっこよくて、何がかっこ悪いのかの定義は、年齢とともに大きく変わって来た。現在いまの私なりの答えは、自分も他者も大切にして、感謝して生きられる人がかっこいいということになるかもしれない。
他者をジャッジすべきでないのと同様、自己もジャッジしないようでありたい。自分の姿も体の衰えも静かに受け止めて、生きていることに微笑んでいたい、と切望する。

自分の人生はほかの誰も肩代わりしてくれないのだから。
無様ぶざまだと自分が決めたら、無様に生きることになる。
自分のままで満足して生きるには、まず自分を受容することからしか始まらないと思う。

冒頭のおばあちゃんの写真は、Tome館長さんのみんフォトからお借りしました。
カワイイし、かっこいいので使わせていただきました。
写真のおばあちゃんお一人で育てて摘んで、並べて売ってらっしゃるんだろうな。
きっと、いいお顔をされているのだろうなぁ‥‥






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