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カラオケ小話(しょうわ)

趣味は何ですか?

趣味はと聞かれたら、旅行、海外ドラマ鑑賞と言っています。
旅行は石垣島にはまっていますが、海外ドラマは、最近は韓国ドラマをずっと見ています。
隠しているわけではないのですが、実はカラオケも大好きです。一部の会員の方はそのことをよくご存じだと思います。
カラオケは宮崎の文化遺産ではないかと個人的に思っているニシタチ(宮崎市の繁華街の通称)のスナックで歌います。
さて、本日は、カラオケについて考えてみました。
 

カラオケの語源

私の友人の話です。彼は現在70代後半ですが、司会者という職業でして、宮尾すすむに師事し、主に民謡歌手の司会者として活躍された方です。
一般有名なのは金沢明子で、司会者として全国ツアーに同行していたそうです。
彼は一時期、浅草でスナックをしていたそうで、その時に第一興商の創業者がリヤカーに8トラックカセットのカラオケ機器を載せ営業をしていて、それを購入したとのこと。珍しさもあって、たくさんの客が来るようになったのだそうですが、親交のあった偉大な演歌作曲家のE氏も常連だったそうです。
ある日、E氏がグループで来たそうですが、たまたまカラオケが故障していたらしく、E氏が付き人のS(その後大歌手になる)に、お前、うちからカラオケ持って来いと指示したそうです。Sは自宅のふろ場から桶を持ってきたそうで、空の桶でカラオケで大笑いになったというエピソードを聞かされました。
私はネタだろうと思っています。
 

カラオケの語源説

さて、調べてみると、面白い話がありました。
1956年に宝塚歌劇団の楽団員がストライキに入り、劇団側から松下電器が依頼されて、演奏テープと機器を提供して公演をおこなったそうです。劇場のオーケストラが入るボックスが空になったので、カラのオーケストラボックスでカラオーケ、カラオケということだそうです。1956年の松下電器社内報に記事があります。一方で放送業界ではカラオケ、生オケという言葉はあったようで、NHK交響楽団員が使っていた言葉との話もあります。
歌手が自分の歌の伴奏用にテープを局に持ち込むことがあり、これをカラオケテープと呼んでいたとも言われます。
ラジオ放送で歌手の歌のないオーケストラ演奏だけのものをMMO「ミュージック・マイナス・ワン」と言っていたそうです。ちなみに1951年放送開始の「歌のない歌謡曲」という番組は文字通りMMOの曲を流しています。
 

カラオケの市場規模

「カラオケ白書2020」によればカラオケ業界の市場規模は、酒場(スナックなど)市場が約1513億円、カラオケボックス約3798億円、その他観光バス・宴会場・福祉施設で約456億円、業務用市場としての合計は約5765億円。
加えてソフトメーカーの売上700億円、コンテンツ配信2727億円、これらにスマホやカーナビ、ネットテレビでのカラオケ利用料などを合計すると、カラオケ関連全体で1兆円近い規模と推測できるのだそうです。(2019年)
 

カラオケは誰が発明?

このカラオケは誰が発明したのか。

松下電器(現パナソニック)出身のジャーナリスト、前川 洋一郎氏によれば、「カラオケの発明者は誰か一人に特定はできない。カラオケはハード、ソフト、システム、サービスに関して個々に発明・発案者がいるが、その中の誰かがカラオケのシステム全体を創造したわけではないからだ。その代わりに、1965年から75年に至る「カラオケ黎明期」に開発に貢献した12人の「カラオケベンチャー」を選び出すことはできる。」

具体的には以下の方達です。
根岸重一
 8トラックカーステレオにマイク・ミキシング機能を付けた
浜崎巌
 歌入りテープでプロとデュエットを楽しむジューク(ボックス)を作った
別宮浩
 バスの中で楽しめるカラオケ専用機を発売
山下年春
 歌手育成用に8トラック録音再生デッキを作った
井上大佑
 エコー、ミキシング、コインタイマー、伴奏用テープをセットにしてレンタルした
高城喜三郎
 スナックの女性従業員の人出不足対策にカラオケジュークを発売
夏秋勇三
 1曲ごとに頭出しできるソフトテープを開発
遠藤実
 ミノルフォン(レコード会社。レコードに通常の楽曲と共にカラオケ曲も収録した)を設立した作曲家
飛矢久良
 カラオケテープを量産販売
尾崎三徳
 カラオケレコード・テープの先駆販売でテイチクをカラオケで日本一に
「石原裕次郎、八代亜紀ヒットメロディー」
毛塚昇之
 全国カラオケ事業者協会を設立
保志忠彦
 第一興商の創業者
 カラオケ機械の誕生と発展

カラオケの発展

彼らのアイデアやその具現化のための開発などを見るととても面白いものがあります。一般社団法人全国カラオケ事業者協会の「歴史年表解説」には次のように紹介されています。
「1970年代の初頭には、それまで主に軽音楽のBGM再生機として使われていたコインボックス内蔵の8トラック式小型ジュークボックスにマイク端子が付く。そして根岸重一氏(日電工業)らが軽音楽テープ等を使って歌唱するサービスを小型ジュークボックスに追加提案するなど、カラオケの前身的な利用方法が登場した。
軽音楽テープが「聴くこと」を目的としているとすれば、カラオケテープは「歌うこと」を目的に作られる。厳密に言えば、プロ歌手ではなく、素人に歌いやすくアレンジされていなければならない。仮にこうした定義に基づくと、国民皆唱運動を展開した山下年春氏(太洋レコード創業者)が'70年に発売した伴奏テープ(8トラック式)は、初のカラオケソフトと言える。
その翌年、井上大佑氏(クレセント創業者)がスプリングエコー、コインタイマー内蔵のマイク端子付き8トラックプレーヤーを手作りで製作。弾き語りで録音した伴奏テープ10巻(40曲)をセットして店舗へレンタル提供した。店舗での使用料金は1曲5分間100円だったが、神戸市(兵庫県)の酔客の人気を博し評判となる。カラオケが業務用として誕生し、普及していったことを考えれば、カラオケ事業の始まりは'71年だと言える。
こうして誕生したカラオケは、'73年には早くもビジネスとして各地で注目を集める。ハード、ソフトメーカーが相次いで登場してレンタルを開始。酒場など、社交場を中心に急速に普及していった。'76年にはテイチクが豊富なライブラリーを背景にカラオケテープを販売。家電・音楽業界からはクラリオンと日本ビクターが参入している。」
ちなみに根岸重一氏のミュージックボックスは歌のない歌謡曲の音源を使用したそうです。
 

カラオケの進化~第二世代?

カラオケは途中から映像と結びつきます。レーザーディスクで映像に歌詞が表示され、しかもメロディに合わせて歌詞の文字色が変化するというガイド機能までつきます。私のカラオケ人生もこのころからです。
通信カラオケが普及するまでは、このレーザーディスクカラオケが主流でした。ビクターがVHDというビデオディスクで対抗、VHS、ベータ戦争の影響もあって、多くのメーカーはVHDを担ぎましたが、VHDは普及しませんでした。余談ですが、このLDはCDとコンパチなプレイヤーが出たことで家庭にも普及するようになります。会員の中にもプレイヤーをお持ちの方もいたのではないでしょうか?私も持っていまして、東京の家で邪魔者扱いされています。
 
カラオケボックスには、レーザーディスクによるサーバーシステムが存在し、オートチェンジャーでLDが選択されてプレイヤーに運ばれるという時代がきます。カラオケボックスのバックヤードには複数のオートチェンジャーと大量のLDが収納された部屋がありました。
珍しい曲を選ぶと、オートチェンジャーが探す時間と運ぶ時間で待たされるなんていうことがあったり、収納場所を間違えていて他の曲がかかるということも初期にはあったようです。
 

通信カラオケの登場~第三世代

今は、通信カラオケが主流です。通信カラオケは回線を通じてコンテンツサーバーから曲をダウンロードして歌います。当初はMIDI規格のデジタル音源ファイルを再生するものでしたので本当の演奏ではありませんでした。シンセサイザーで再生した音源に合わせて歌うものです。現在はPCM音源が使われ、実際の演奏をデジタルサンプリングしたものを使っていますので、オリジナルに近い伴奏になっています。カラオケの黎明期は演奏家が演奏したものを録音して再生機とテープを一緒に販売していたのからすると、ほんとうに歌手と同じ音源で歌うことになるのです。また、課金方法も変わってきました。昔のスナックは100円玉を機械に入れて使っていました。ジュークボックス形式とでもいうのでしょうか。通信カラオケは曲当たりの金額と基本料金になっているようです。
 
レーザーディスクの登場で映像も楽しめるようになりました。通信カラオケの時代になり、相当映像も進化しました。
最新の通信カラオケでは、本人が出る本人映像、ドラマや映画の主題歌だとそのドラマのシーンが出たりします。本人映像は盛り上がります。第一興商の最新のコンテンツに、プレミアムデュエットというのがあり、水森かおりと氷川きよしバージョンがあり、銀恋などのデュエットを水森かおりとできます。
本人映像に積極的に出ている歌手もいます。あいみょんはほとんど本人映像を提供しています。ケツメイシはその曲のミュージックビデオをカラオケにも提供しています。ある説では、本人が出ることで認知度が上がり、ファンが増えるということもあるようです。
本人映像でみなさんにもぜひ見ていただきたいのですが、藤山一郎という大歌手です。彼のジャケットの襟にはロータリーバッジらしきものが見られます。藤山一郎氏は47歳くらいで東京西RCに入会、熱心なロータリアンでした。亡くなる前日にも車いすで例会に出席しています。100%出席を貫いたそうです。
私が東京西RCにいた時にはすでに亡くなられていますが、娘さんが例会でピアノを弾かれていました。国家、ロータリーソング、食事中のBGMが生演奏でした。東京西RCの歌というのがあり、これは藤山さんの作です。四つのテストも藤山一郎バージョンがあります。昨年度、誕生祝の歌を日本語歌詞でおこないましたが、これも藤山一郎氏の作詞によるものです。
 
この通信カラオケですが、音源と背景映像、歌詞の3つのデータファイルが存在します。これが合成されて演奏されますので、本人映像でない場合は、同じ映像が出てくることもあります。
以前、三洋電機からいただいた仕事で、この3つのデータファイルを統合して、ひとつの映像としてDVDにするというものをしたことがあります。これは外国、著作権が無視されやすい国向けのカラオケ機器の輸出をするにあたり、データファイルが別々だと分離して再販とか流出する可能性があったからです。
 

カラオケにおける印税

さて、このカラオケですが、印税なるものが存在します。基本的には作詞家と作曲家に入るようになります。1曲あたり6円程度、作詞家と作曲家それぞれ3円ずつ程入ることになります。歌手にも1円くらい入ると言われますが、これは歌手によっても違うようです。
みなさん、弾厚作、原譲二、呉田軽穂は誰かわかりますが?彼らは作曲家としてのカラオケ印税も入るようになります。カラオケ市場が拡大して、シンガーソングライターほど後から儲かる時代なのかもしれません。
 

私のカラオケ歴

昔からカラオケは好きでした。ただ、昔はカラオケで歌える曲が少なかったですね。演歌も大御所のみで少なかった記憶があります。昭和歌謡が多かったと思います。「夜霧よ今夜もありがとう」裕次郎、歌っていました。
韓国に行き始めた2000年前半、韓国には日本からのレーザーディスクカラオケが中古で流れていたようで、日本人向けの店ではレーザーディスクが多かったですね。あの分厚い楽曲リストをめくり、数字のコードをリモコンで入力する方式でした。
その頃、日本の歌は少なく、30曲くらいしかなかったような気がします。松山千春の「長い夜」がかろうじて歌える歌でした。最近話題になりました、梨泰院には日本人向けのカラオケクラブがたくさんあります。ステージがあり、バックでボーイさんたちが踊ってくれます。ミラーボールやレーザー光線で演出されプロ気分です。
梨泰院のカラオケクラブ、別の楽しみもありますが、これはまた別の機会に。
 

二次会でカラオケ

宮崎に会社を作った頃、みんな新しい社員でしたので、交流を深める意味もあり、数年は二次会でカラオケスナックによく行きました。その後、今から15年前に甲状腺がんとなり、手術をしましたが、医師からの事前の説明で、甲状腺に接触している2本の神経を触るため、損傷する可能性があるとのことでした。
そのうちの1本が声帯を動かすための下喉頭神経で、声が変わるかもと言われました。実際高い声が出にくくなり、1オクターブくらい、カラオケのキーがさがりました。高音の伸びが自慢で、幼少の折はスイスの隣の合唱団のような声でしたが、下で歌わざるを得ませんでした。一番困ったのはカラオケでのキーの調整です。だいたい、5下げで歌います。
よく行くスナックではそこのスタッフがキーの調整がとてもうまく、ありがたかったです。DAMのデンモクなのですが、ログインしてマイページが出る機能があり、最近はそれにキー情報ごと登録できるので助かります。同じデンモクがあれば全国どこでもマイページが開きますので便利です。
 
女性の歌が好きで、最近はあいみょん、YOASOBIなどを歌っています。学生時代バンドをやっていたのですが、主に女子大でのコンサートに出ていました。
ボーカルは女性だったのですが、1,2曲途中で歌わされ、あまり好きでないオフコースやチューリップがリクエストされるので、練習して歌っていました。
今ではそれが十八番であったりします。
 
よくいくスナックは37年となるお店で、常連さんと顔なじみになっています。そこで友達になった方も多く、私の生活の一部のようです。
みなさん、まだ感染症の心配はありますが、ストレス解消にカラオケ、行きましょう!

(この原稿は宮崎アカデミーロータリクラブで卓話をした際の原稿です)

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